二代 山村良勝  初名十三郎 甚兵衛 隠居後用済

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 永禄六年出生。天正一〇年六月信長死後の七月一七日、木曽義昌は小笠原貞慶に深志城を追われ、同一九日深志城奪還を目指し戦を挑んだが、小笠原勢の反撃にあい敗走した。同年九月家康と盟約を結んだが、天正一二年の初ころには家康との盟約を反古にして秀吉に属した。同年八月貞慶は木曽への進撃をはじめ、木曽の内応者贅川又兵衛らの案内で木曽福島まで兵を進め義昌の館を占領し、岩郷に火を放ち引揚げた。良勝は古畑伯耆と共に殿戦(しんがり)を勤めて功があった。家康は同年八月の貞慶の木曽進入を機に、飯田城主菅沼定利に命じ、高遠の保科正直・諏訪の諏訪頼忠らを指揮して七〇〇〇騎の兵をもって木曽を攻めさせた。秀吉は義昌に命じてこれを喰止めるべく妻籠城を固めさせた。義昌は良勝に兵三〇〇を授けてこれを守らしめた。良勝よく防ぎ敵を退却せしめた。しかしこののち秀吉の命で義昌は再び家康に属することになった。
 天正一八年七月秀吉は小田原北条氏政を攻め、木曽氏は諏訪氏らと家康軍に属して従軍した。義昌は病のためその子義利を従軍させた。秀吉は北条氏政が降り天下統一がなると、家康を関東に移封した。義昌は木曽を追われ下総国阿知戸に転封になった。良勝は父良候と共に義昌に従い阿知戸に赴いた。慶長三年義利改易となり良勝は流浪して佐倉にあった。同五年六月家康は上杉征伐のため下野国小山に着陣した。石田三成この機に兵を挙げ関が原戦となった。良勝は千村平右衛門・馬場半左衛門と家康に召されて木曽路の平定を命ぜられ、木曽の旧臣と共に戦功を立て美濃において一万六二〇〇石をうけた。良勝は父道祐ともにこのうち五七〇〇石をうけた。
 慶長七年道祐没し、良勝家督をうけた。同一三年良勝隠居し用済と号す。元和元年大坂冬の陣には、尾張藩主義直が出陣したが、幼少のため老巧の臣を付けられた。良勝選ばれて随従した。同年大坂夏の陣には良勝・千村良重と共に摂津国牧方を固めた。
 元和元年八月木曽は尾張領に編入された。
 同四年良安没し、良安の二男良豊幼年のため良勝再び家督した。
 同年江戸金杉にて金森屋敷の向かいに屋敷地を拝領した。
 同五年良豊を伴い将軍秀忠に初御目見をし、良勝より太刀・銀馬代・毛氈五枚献上、良豊より太刀・銀馬代・菖蒲革(しょうぶがわ)(註1)一〇枚を献上、将軍より良勝に時服五、良豊に時服四を拝領した。いずれも御紋付であった。
 寛永六年再隠居。同一〇年病気中尾張藩主義直より病気見舞状と医師を派遣される。
 同一一年八月三日没す。享年七二歳。法号万松院殿賢岩宗用大居士。興禅寺に葬る。