四代 山村良豊  三郎九郎 久兵衛 甚兵衛

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 良勝の第二子として慶長一一年出生。元和元年大坂冬の陣の節九歳であったが、父義勝に伴われ京都二条城において家康に御目見したとき、山村用済伜三九郎と名乗り利発なる生れと賞められた。
 寛永六年父良勝再隠居し家督を継ぐ。同七年父良勝と参府将軍秀忠に御目見継目の御礼を言上する。
 正保二年四月一七日福島居館焼失、尾張藩主義直より見舞状並びに榑(くれ)木三万挺下附された。山村家四保の難(註2)の一つである。同三年三月義直より木曽関所守衛上騎馬同心四人(一人に付四〇石)の給米百六十石、足軽四〇人給(一人に付四両三分)百九十両の給付をうける。
 寛文四年尾張藩は、はじめての谷中巡見を行い普請奉行大村源兵衛らを派遣し、村々の実情山林の調査を行い翌五年林制改革を断行して、山林・川狩とも藩直轄とし上松原畑に上松材木奉行所を置いた。これによって山村代官の木曽支配は地方(ぢかた)のみとなった。また留山の指定をし禁林区域とした。
 同七年江戸金杉の屋敷地が新堀になるによって、その替地を芝増上寺南にて二四三三坪を拝領した。
 延宝八年隠居、翌天和元年正月一五日没す。享年七六歳。法号興禅寺殿大円宗慈大居士。興禅寺に葬る。