貞享三年二月一二日良忠の三男として出生。元禄一三年尾張藩主吉通の小姓に召出され、五〇石五人扶持を給せられていたが、兄良景没し嗣子がなかったので兄の家督を継いだ。
正徳元年助郷設定を出願し、翌二年一二月木曽一一宿に対し助郷計二万七一三四石が指定された。
享保六年第四回の木曽谷中巡見が行われた。この巡見は国用人遠山彦左衛門の計画によるもので、寛文五年の林政改革につぐ享保の改革の前提になったもので、巡見によって綱紀の弛緩・山林の荒廃の実情が暴露された。
同八年二月四日福島居館小使部屋より出火し、土蔵のほか、諸道具、役所留記類悉く焼失した。復旧のため尾張藩に借財を出願したが、藩財政上聞入れられず、白木三〇〇〇駄の下附をうけた。
同七・八年には山林荒廃の故をもって四木の停止木や山林規制の法度が出され、その誓約書が徴され、また従来認められてきた切畑禁止・木年貢の廃止により下用米の停止が令ぜられた。山村家では禁止令の緩和について藩庁と再三交渉に努めたが、その結果かえって不利となり、米納が決定し同九年三月谷中検地施行の指令を受けた。検地は極めて厳重なもので、耕地の丈量・査定ということよりも綱紀の粛正を目的として行われた。検地の終了後間もない五月一一日、尾州表より飛脚をもって「山方・谷中・宿並取扱候重立候者、遠慮被仰付候」として、山村家の重役四名は閉門を申し付られた。これは山村家へ対しての戒であった。四保の難である。
同年八月上の段に役所を設け、普請奉行大村源兵衛を派遣して山村役所と立合裁許し、山方のことに関しては上松奉行と三方立合にて処理することを仰せ付られた。
元文四年山村家の御免白木五〇〇〇駄分の代りとして年々米一五〇〇俵が下附されることになった。
寛保二年良啓を同伴、参府将軍吉宗に御目見した。献上品は先規の通りであった。延享三年隠居道仙と号した。
宝暦二年一一月一八日没す。享年六七歳。法号信量院殿寛厚宗仁大居士。興禅寺に葬る。