分家山村十郎右衛門良考の四男で、正徳元年出生。始吉田皎貫の嗣となることになっていたが、本家良及の養子となった。寛保二年父良及に随って参府将軍吉宗に御目見した。延享三年正月二八日良及の家督をうけた。同年将軍家治に継目の御礼御目見をした。
延享四年福島館前の大石垣を築き直した。現在の福島小学校前の石垣がそれである。
宝暦二年公儀代替りに付嗣子良由を伴い参府、将軍に御目見する。献上品は先規のとおり。
明和六年二月贅川、野尻宿の間に米買占めに反対して農民騒動が起こり、一二〇〇名が福島代官所に押し寄せた。山村家役人の鎮撫によって翌三日未明に解散した。同日上の段組頭ほか三名入牢仰せ付られ、二月一八日名古屋表から吟味役一二名の出張があって取調の上多くの入牢者を出して一段落した。
天明元年隠居して三郎左衛門と改めた。同六年一二月一三日没す。享年七六歳。法号仁光院殿範鏡宗弘大居士。興禅寺に葬る。