九代 山村良由 七之助 式部 三郎右衛門 甚兵衛 伊勢守

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 良啓の第二子として寛保二年三月六日出生。兄良恭が部屋住みのうちに三一歳で没したため嗣子となる。宝暦一一年父に随って参府し将軍家治に初御目見する。幼より学を好み医師三村道益について学び、江戸にて服部南郭に接し、儒林の諸家にあい、大内熊耳に入門の約を結びて帰り学問に励んだ。
 天明元年一〇月一七日家督を継ぐ。山村家は財政困難で危機にひんしていた。良由率先して節約を励行し、名古屋屋敷留守居役石作貞一郎を勘定役に登用して、家財の整理を断行して立直しをはかり、財政が余裕を生ずるまでになった。天明六・七年にわたる飢饉には各村を巡村して、金穀を施し医薬を施して救済に当った。
 天明七年松平定信上京の途次木曽を通過して、施政のよく行届いているのを見、尾張藩主宗睦登城の折このことを宗睦に語ったので、宗睦、良由を賞した。定信は良由を幕閣に採用しようと宗睦にはかったところ、宗睦はこれを断わり尾張藩庁に招じて行政に当らせようとした。翌八年一〇月名古屋表に召致されたが、病気のため一一月に出名してその命をうけ、一二月四日命により隠居をして家督を良喬に譲り、同日御年寄役仰せ付られ知行三〇〇〇石を与えられた。寛政二年、宗睦江戸定府となったので随従して江戸に出て、市谷江戸藩邸に住居し江戸詰扶持八五人持を給せられた。寛政五年従五位下に叙され伊勢守に任ぜられた。寛政一〇年秋より病気により引籠り宗睦、成瀬隼人正より惜まれたが辞任し、芝の山村屋敷に引移り隠世した。在勤中の功により五〇人扶持を下附された。良由の叙任は山村家未曽有の栄誉であった。
 寛政一二年芝屋敷仏間より出火、土蔵は残ったが鎧・書物等一切焼失し、大川橋南控屋敷に移った。辞任後は江戸と木曽を往復し、江戸にあっては細井平州と交わり、中山後凋軒に長沼の兵法をうけた。性多能で弓馬刀槍の道はもとより笙・琴・書画の技におよび、妙を得た。
 文政六年正月一六日没す。享年八二歳。法号徳光院殿前勢州刺史照山宗遵大居士。興禅寺に葬る。