一三代 山村良醇(たかあつ)  七之助 式部 三郎九郎 甚兵衛 隠居後恒園

432 ~ 433 / 667ページ
 良祺の長男として文化一二年一二月二四日出生。天保九年六月父良祺に随って将軍家慶に初御目見した。弘化元年一二月二五日家督を継ぐ。
 弘化二年一〇月「木曽并三ヵ村三浦山盗伐等御仕置御定」として、始めて成文化された背伐刑罰令が出た。
 嘉永二年これまでの檜類五木の停止木に次いで、槻が停止木となった。
 明治二年正月尾張藩木曽総管所が置かれ興禅寺を仮役所とし、山村良醇は立会を命ぜられた。同年二月福島関所廃止になった。同三年美濃国笠松県貫属に任命され現米一四二石五斗を給せられた。同四年隠居し中津川元代官所に移り住んだ。明治一六年七月二四日没す。享年六七歳。神式により葬い、山村恒園の墓とす。墓地は興禅寺。
 註1 菖蒲革 藍地に白く菖蒲の葉や花の模様を染め出した鹿のなめし革で、「尚武」「勝負」と音が通ずることから縁起がよいとして武具に用いられた。

菖蒲革

 註2 山村家四保の難 山村家に四度の大難があったが、いずれも「保」のつく年号のときであったので四保の難といわれている。
  (1) 正保二年四月一七日 福島邸宅の焼失
  (2) 享保八年二月四日  福島邸宅の焼失
  (3) 享保九年谷中検地後政務怠慢の廉をもって、重役四名蟄居命ぜられた。
  (4) 天保年中家中不取締の数々あり、重臣ら一二名追放され、上四宿の役人ら所払い・押込に処され、当主良祺隠居を命ぜられた。
 註3 四書・五経 ともに儒学の枢要の書である。
  (1) 四書 中の大学・中庸の二編と、論語・孟子の総称。
  (2) 五経 先春時代に存したと伝えられる六経のうち、亡失した楽経以外の経書のことで、易・書・詩・礼・春秋の五経。