回状の村継

435 ~ 436 / 667ページ
尾張藩庁の各奉行所から発せられる通達文書は、福島の山村役所に送付されると、回状を二通作り、福島より贄川までの上(かみ)の村と上松から田立までの下(しも)の村に分けて村継により回付された。通達文書は急を要することが多いので、その便を図るためである。回状にはその末尾に「上松より田立まで右村中」と記して「右の趣村中端々まで洩らさざる様申し触承知の上、村付下庄屋印判押し順達納所より差戻すべく者也」と村民に周知徹底する様指示している。庄屋は回状を受取ると直に写し取り、付紙の村名の下に受取印を押して次の村に回送した。すべての回状は直ちに次村に送付することが義務付られていた。回状の写をみるとその余白に「右回状二月十日夜五ツ時(午後八時)湯舟沢より参り、早速田立村に遣す」と覚書が記してある。また「此回状八月十五日、夜五ツ時湯舟沢村より受取り候処太水(ふとみず)に付渡船相成難候に付、翌早朝田立へ継送り致す」と遅れた理由を記したものもある。
 特に緊急を要す回状文には包紙に「飛切大至急」とか「至急」と朱書されていた。このような回状は夜間であっても、直ちに次村に送付しなければならなかった。また「要刻付」と記したものがあり、これは受取った時刻を付札の村名の下に記入して回付することを義務付けられたものである。山口村外垣庄屋の毎年の「諸事役用留帳」の回状控には受取時刻の記したものが多い。後日のため責任を明らかにしたものとみられる。福島役所から田立村に到着する日数は四日間が普通であった。なかには六日間を要したものもあるが、これらは長文のもので庄屋が写し取るに手間どったからと思われる。