山口村庄屋から田立村庄屋に回状を送付するには、きびうの渡しを桴(いかだ)越して坂下村を通り田立村に行くのが普通であったが、木曽川増水時には桴を出すことが出来なかった。水が引くまで回状を留め置くことは出来なかったので、この場合の応急措置として「矢文」をもって届けていたことが、「外垣庄屋役用留帳」に記されている。
寛政三年三月二六日雨天 山口川並御番所より田立御番所へ御用状差遣候処、出水に付矢文にて定使宇右衛門、あそうえ参り遣す。
また同日福島役所からの回状も
出水桴越申さず、田立村えは矢文にて申遣し、馬篭え御回状差出す。
と記している。そして右の「馬篭へ御回状差出す」というのは、回状は最後の村田立村から役所へ返すことになっているが、田立村からは返せないから、山口村から馬籠村へ返したということである。
木曽川増水のたびごとに桴渡しが出来ず、回状は矢文によって連絡することがしばしばあった。山口から田立の矢文連絡の受渡し場所がどこであったか、確かな位置はわからない。坂下村への連絡も同様に矢文によって行っていたようで、雨乞岩の対岸坂下握の「よろい岩」の上方に「矢受け」の地名が残っている。