法令・禁令を板札に墨書して掲示したもので、制札ともいう。公儀「御高札」では、本文にあたる法令部分は仮名交り文で記され、一(ひと)つ書きや奇数条項の形式が採られ、本文のあと法令発布の日付と発布者である老中の官名が連署された。初期には法令の改正以外に改元や老中交替の際にも高札の改替が行われ、頻繁に高札が発せられたが、寛永末から老中の連署の代りに奉行とのみ記す方式が始まり、四代将軍家綱の明暦ころからは改元の際のみ書き改められ、さらに五代綱吉からは将軍代替り後の最初の改元の際のみ書替えるという一代一回の制がとられ、六代家宣時代の高札は正徳元年(一七一一)五月に発せられた。七代家継は早世のため書替の機会がなくこの慣行も崩れ、八代吉宗も書き替えは行わず、以後の将軍も吉宗に倣ったため、結局正徳元年五月の日付の高札が幕末まで維持された。これは初期から存した雑事・キリシタン・毒薬・火付・駄賃の大高札についてのことであり、それ以外の高札は正徳元年五月以降にも数多く発せられた。高札は一般庶民に法を公示する手段として用いられたが、ほかに数々の役割を果した。
(一) 高札は簡潔で庶民にも理解しやすく、寺子屋の教科書として利用させ、また版刷にして販売させ、庶民に対し法への親近感を植え付けた。
(二) 幕府が庶民統制上最も重視した施政を高札に盛り、幕府の基本施政の周知徹底を図った。初期の雑事札・天和元年五月の忠孝札・正徳元年五月親子札に至る一連の高札は、庶民の根本法であり、文治儒教主義へと推移がみられる。
(三) 高札違反者を厳罰に処し、高札場の管理を厳重にし、高札場を通る者に被り物を取らせ敬礼させ、高札を通じ庶民に法の厳正を教え、幕府の権威を誇示すると共に遵法精神の涵養を図った。