高札場

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江戸時代宿や村に、庶民に法令を徹底させるために高札場が設けられていた。高札場は無年貢地であった。街道の宿場・村では庄屋宅の近くの目立つ場所に設けられていた。各宿村間の里程の測定は高札場を基点として定められていた。
 山口村の高札場は、寛保三年の村絵図に描かれている、外垣庄屋宅前の道路の西側(現在一三二五番地)に設けられていた。(下図参照)その跡は土盛がされて周囲の畑地より一段高くなっている。高札場は柵が設けられて入れないようにし、柵の中には栗石が敷かれきれいにされていた。高札場の管理は庄屋にまかされて修理は藩に届け出で、札の書替は藩が行った。

山口村高札場の位置見取図

 明治六年二月二四日高札は法令公布の方式としてもはや時勢に沿わないとして撤去された。高札場の土台敷石二枚が外垣氏屋敷地内に保管されている。
 馬篭宿の高札場は、享保六年馬籠村明細書上帳(神坂蜂谷保蔵)によると「問屋より一町四〇間(約一八〇メートル)にあり辰巳(東南)方向に向かって建てられていた。宿場図によると江戸よりの入口で、現在上但馬屋の上と思われる。旧位置より少しずれているが復元されている。同帳によると掲示されていた大高札は、東の方に親子(雑事)・キリシタン・毒薬、西の方に御朱印・駄賃・火付の六札であった。この六札の法文の写しが、「正徳元年御高札之写、享保一一年九月馬籠宿大脇兵右衛門」とある表紙の帳(東京都徳川林政史研究所蔵)にある。六札の法文を掲げると次のとおりである。

馬籠宿高札法文の写本(享保11年)
(東京都 徳川林政史研究所蔵)

       定
 一親子兄弟夫婦を始め、諸親類にしたしく、下人等に至る迄、これをあはれむへし、主人ある輩ハ、をの/\其奉公に精を出すへ起事
 一家業を専にし、〓る事なく、万事其分限に過るへからざる事
 一いつわりをなし、又ハ無理をいひ、惣して人の害になるへき事をすへからさる事
 一博打の類一切に禁制の事
 一喧嘩口論をつヽしミ、若其事ある時みたりに出合へからす、手負たるものかくし置へからさる事
 一鉄砲猥に打へからす、若違反の者あらハ申出すへし、隠し置、他所よりあらハるヽにおゐてハ、罪重かるへき事
 一盗賊・悪党の類あらハ申出へし、急度御ほうひ下さるへき事
 一死罪に行ハるヽ者ある時、馳集るへからさる事
 一人売買かたく停止す、但男人の下人、或ハ永年季、或ハ譜代に召置事ハ、相対に任すへき事
   附、譜代の下人、又ハ其所に住来る輩他所へ罷越、妻子をももち有付候もの、
   呼返すへからす、但、罪科ある者は制外の事
右條々可相守之、若於相背者、可被 行罪科者也
    正徳元年五月 日            奉行
右之通従 公儀被 仰出之訖、袮堅可相守之者也
                        竹腰山城守
                        成瀬隼人正
 
     定
一毒薬并似セ薬種売買の事禁制す、若違犯之ものあらハ其罪重かるへし、たとひ同類といふとも、申出るにおゐてハ、其罪をゆるされ、急度御褒美下さるへき事、
一似セ金銀売買一切ニ停止す、若似セ金銀あらハ、金座・銀座へつかハし相改へし、はつしの金銀も、是又、金座、銀座えつかハし相改むへき事、
   附、惣して、似セ物すへからさる事、
一寛永之新銭、金子壱両に四貫文、壱分にハ壱貫文たるへし、御領私領共に、年貢収納等ニも如御定たるへき事、
一新銭之事、銭座之外、一切鋳出すへからさる事、
一新作之慥ならざる書物、商売すへからさる事、
一諸職人いひ合せ、作料、手間賃等高直にすへからす、諸商売物、或一所に買置きしめうりし、あるひハいヽ合せて、高直ニすへからさる事、
一何事によらす、誓約をなし、徒党を結ふへからさる事、
右条々可相守之、若於相背ハ 可 被行罪科者也
    正徳元年五月 日                 奉行
右之通従 公儀被 仰出之訖、袮堅可相守之者也
                             竹腰山城守
                             成瀬隼人正
 
     定
一火を付る者をしらハ早々申出へし、若隠置におゐてハ其罪重かるへし、たとひ、同類たりというとも、申出るにおいてハ其罪をゆるされ、急度御褒美下さるへき事、
一火を付る者を見付ハ、これを捕へ早々申出へし、見のかしにすへからさる事、
一あやしきものあらハせんさくをとけて、早々御代官・地頭え召連来るへき事、
一火事之節、鎖・長刀・脇差等、ぬき身にすへからさる事、
一火事場、其外いつれの所にても、金銀諸色ひろひとらハ、御代官・地頭へ持参すへし、若隠置他所よりあらハるヽにおいてハ、其罪重かるへし、たとい、同類たりというとも、申出る輩ハ其罪をゆるされ、御褒美下さるへき事、
右条々可相守之、若於相背ハ可被 行罪科者也
    正徳元年五月 日                    奉行
右之通従 公儀被 仰出之訖、袮堅可相守之者也
                                竹腰山城守
                                成瀬隼人正
 
     定
切支丹宗門ハ累年御制禁たり、自然、不審或もの有之ハ申出へし、御ほうひとして
  はてれんの訴人     銀五百枚
  いるまんの訴人     銀三百枚
  立かへり者の訴人    同断
  同宿并宗門の訴人    銀百枚
右之通下さるへし、たとひ、同宿宗門の内たりといふとも、申出る品により、銀五百枚下さるへし、かくし置他所よりあらハるヽにおゐてハ、其所の名主并五人組迄、一類共に罪科ニおこなわるへきもの也
  正徳五年五月 日                      奉行
右之通従 公儀被 仰出之訖、袮堅可相守之者也
                                竹腰山城守
                                成瀬隼人正
 
     定
一駄賃并人足荷物の次第
   御伝馬并駄賃の荷物      重サ壱駄四拾貫目
    歩もちの荷物壱人      重サ五貫目
    長持壱丁          重サ三拾貫目
    但、人足壱人持重サ五貫目の積り、三拾貫目の荷ハ六人して持へし、それより軽き荷物ハ貫目にしたかひて人数減すへし、此外いつれの荷物もこれに准すへし
      乗物壱丁   次人足六人
      山乗物壱丁  次人足四人
一御朱印伝馬人足之数、御書付の外に多く出すへからさる事、
一道中次人足・次馬の数、たとひ国持大名たりといふとも、其家中共に東海道ハ一日に五拾人・五拾疋に過へからす、此外の伝馬道ハ弍拾五人・弍拾五疋に限へし
  但、江戸・京・大坂の外、道中におゐて人馬共に追通すへからさる事、
一御伝馬・駄賃の荷物ハ其町の馬残らす出すへし、若駄賃馬おほく入時ハ在々所によりやとい、たとひ風雨の節といふとも、荷物遅々なき様に相はからふへき事、
一人馬之賃御定之外増銭を取におゐてハ牢舎せしめ、鳥目五貫文ツゝ人馬役者ハ家壱軒より百文ツヽ出すへき事、
   附、往還の輩理不尽の儀を申かけ、又ハ往還の者に対し非分の事あるへからさる事、
右条々可相守之、若於相背者可為曲事者也
    正徳元年五月 日                    奉行
右之通従 公儀被 仰出之訖、袮堅可相守之者也
                                竹腰山城守
                                成瀬隼人正
 
     定
一馬籠より之駄賃并人足賃銭
  妻籠迄
     荷物壱駄   百八文
     乗掛荷人共  同断
     かる尻壱疋  六拾七文
   附、あふつけハから尻に同し、それより重き荷物ハ本駄賃銭に同しかるへし、夜通し急に通る輩ハから尻に乗共本駄賃銭と同前たるへし
     人足壱人   五拾弍文
  落合迄
     荷物壱駄   五拾五文
     乗掛荷人共  同断
     から尻馬壱疋 三拾六文
     人足壱人   弍拾八文
  泊々にて木賃銭
     主人壱人   三拾五文
     召仕壱人   拾七文
     馬壱疋    三拾五文
右之通可取之、若於相背ハ、可為曲事者也
   正徳元年五月 日                     奉行
 右之通従 公儀被 仰出之訖、袮堅可相守者也
                                竹腰山城守
                                成瀬隼人正
 

馬籠宿高札場(復元)

明治元年(一八六八)正月二七日明治新政府は、幕府の高札を撤去するよう次の通達を出した。
 
以急回状申入候、御領分中高札之儀、今般王政御一新之御主意を以改替相成筈ニ付、是迄懸け有之候高札不残、早速取入置候様可致候、此段承知之上、村付下ニ印判押刻付を以早々順達留り村より役所へ可戻者也
   辰正月廿七日