宗門改

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天文一八年(一五四九)伝導開始以来キリシタン信仰は諸方に広まり、殊に西日本に浸透した。豊臣秀吉は、天正一五年(一五八七)九州征伐の帰途、長崎がキリスト教会の基地になっていることを知って、バテレン追放令を出し禁教政策を推進した。家康もその方針を引継ぎ、慶長一七年(一六一二)幕府直轄領に禁教を布告し、翌一八年には全国に広め、キリシタン宣教師の追放にあたった。そして改宗者に限り、証拠のため寺院僧侶の判形をとった。寺請制度の始まりである。二代将軍秀忠も元和二年八月に全国に禁教令を発して、家康の政策をついだ。
 寛永一四年に島原の乱が起り翌一五年鎮圧されたが、三代将軍家光は乱後の一七年ますます弾圧を強化し宗門改めを設置して、大目付井上筑後守政重をこれに任命し、幕領のキリシタン改役人の設置と毎年宗門改めを実施することを命じた。
 木曽ではこれより早く寛永一二年に興禅寺桂岳和尚が、檀方のキリシタン詮議をし、三九名の証明書を木曽代官所に提出した(木曽福島町史)。同一八年五月二七日付尾張藩国奉行より木曽の村々に通達された五か条の定書の冒頭に、キリシタン取締の条項がある(王滝村誌)。抜書して掲げると次のとおりである。
 
        定
 一 吉利支丹宗旨御制禁之儀従先年、度々堅雖被 仰付袮々百姓なり問屋者ハ不及申、一郷町人たりといふとも無油断可相改、若うたかはしき者於有之ハ奉行所へ可申来、於申出者ハ御褒美可被下事
 
 寛文四年(一六六四)幕府は、「きりしたん宗門穿鑿の儀、一万石以上の面々は、今度仰出され候如く役人を定め、家中、領内毎年これを断絶無く相改さるべく事」(徳川禁令考一六〇三号)と、一万石以上の諸藩に専任の宗門改役人を置いて毎年改めるように命じた。はじめは一般証文という寺手形をとり、二季届帳(二月・一一月)とした。キリシタン禁制の高札が古くなり、文字がみえなくなったものは、書直し立てるべくと命じ取締りを厳しくした。寛文一〇年(一六七〇)一〇月三〇日「宗門改の儀に付御代官之達」として、向後は百姓一軒ずつ人別帳へ記し、婚姻・奉公による転出、死亡による減人、増人を差引きし、男女とも年令を記入するよう命じた。この法令に基づいて幕領全体の宗門改帳が統一された。尾張藩もこれに基づいて同一一年に宗門改帳の型式を統一した。以後宗旨人別帳の作成が宗門改の中心になり、民衆はすべて寺請によって寺院に把握され、宗旨人別帳の作成を通じ幕藩体制の中に組み込まれた。
 尾張藩は寛文七年三月一八日「未(ひつじ)の二四か条」を発令し、住所不定者の五人組編入及び宗旨吟味を命じた。
 
(表)
 但生所慥成商人職人ハ日数廿日迄ハ不及断廿日過候ハゝ相断可差置事
(表)
  此外にも右之類之者、所之百姓と五人組合仕罷有宗旨之僉儀致候者ハ、袮其通ニて可被差置候、只今迄組合有之者も、所之者其組合可仕と申者ハ、組合所之者共組合仕間敷と申者之分ハ、其村々迄自今以後御預ケ置被成候間、常々宗旨之儀穿鑿仕危敷者有之ハ、早速可申出候、切支丹ハ不及申ニ宗門疑敷様子之者、乍存隠置不申出、外より、顕候ハゝ御僉儀之上、其村之庄屋組頭并所之者共、依其品曲事ニ可被 仰付事
 一只今迄有来候右之類之者共も、袮遂僉儀住所不知者一所不住之者有之ハ、御蔵入地ハ所之御代官、給所ハ地頭迄相届夫より寺社奉行方迄相断可被受差図事
 一右之類之者とも或ハ他国・或ハ他村より自今以後、不図参候共一夜之宿も一切不仕候様ニ可申付候、併右之類之内慥成者ニて所差置度子細有之ハ、其趣御蔵入地ハ御代官、給所ハ地頭迄相届ケ、其より寺社奉行方迄被相達受差図置可被申事
     寛文七年未ノ三月十八日
 
これら住所不定の者は、村の百姓の間に入れて五人組みに加入させ、拒む者は村預けとして詮さくし、怪しい者は届け出ること、怪しい者を隠し置いてはならない。百姓以外の者についても宗旨改めの徹底をめざしたものである。
 また寛文八年五月八日「申の五か条」を発令した。相互監視の視点をあげたものである。
  (五か条物)
 一切支丹宗門の儀村中互ニ僉儀仕、切支丹と存候者ハ早速可申出候、常々何事ニ付ても宗旨之躰ニ危敷存より候者有之候ハヽ及見聞ニ候共其村之儀ハ不及申ニ、御領分中ハ他村之者之儀ニても早々可申出候、依其品御褒美可被下候事
 一宗旨疑敷様子有之候ハゝ、仮親類縁者何者ニても、少も依怙贔屓なく早速可申出候、あやしき躰見出し聞出し候心懸ケ油断仕間敷事
 一五人組合之内ニ切支丹有之脇より顕候ハゝ御僉儀の上、組合之者共可為死罪事
 一切支丹宗門之者を訴人仕候ハヽ先年従 公儀御定メ之通、御褒美被下其外ニも別而御褒美可被下候事
 一御領分中在々迄、去春御触被成候御書付之通生れ所不知者又ハ他国より不図参候者ハ何者ニ不寄、袮一夜之宿も一切仕間敷候、然共不差置候て不叶様子有之者ハ其所之御代官・給人迄早速相断置可申候事
    寛文八年申ノ五月八日
 また延宝五年(一六七七)正月二八日「七か条」の宗門取締定書を達した。これの始めに「一切支丹宗門改、毎年これあり候得共、向後は隔年にこれを改められるべく候、これによって当春の改相止めされ、来年午二月・三月中に改申されべく候、勿論末々まで右の通り相心得べく候事」とあり、宗門改めはこれまで毎年行われてきたが、本年より隔年おきに改められることになった。従って本年は改めはなく来春行われるが、二四か条・七か条物を遵守し、油断なく取締りを心懸けるよう達している。なお隔年おきの改めは、幕閣の中に異論が出て五年後の天和元年三月宗門改めを毎年実施するよう令し、翌二年から毎年改められることになった。
 江戸中期以降キリシタンの摘発は激減したが、宗門改の制度はかえって整備強化されている。宗門改帳は民衆の戸籍原簿となった(この帳によって毎年の戸口・動態や各家の系図など知ることが出来るが、山口・馬籠両村とも一冊も残っていない)。
 明治新政府は、祭政一致の政治を標榜して神仏分離令を令して、全国の神社から仏教的要素を排除した。明治四年氏子調べを発令し寺請制度にかわって、強制的に氏子として神社に結び付け、出産届を社家に提出することを義務付け「氏子札」を交付した。明治五年の新戸籍には各戸ごとの家族氏名を記した末尾に「[山口神社氏子 寺当村禅宗光西寺]」と、請書をした。この制度は成功せず、二年間実施されたのみで廃止された。宗門改制度も同六年キリシタン禁制の高札撤廃によって停止された。

氏子札