毎年村内の人員異動を把握するため、庄屋は次の帳を備えていた。
(1) 増人帳 出生、婚姻による他村からの転入者、離婚により転入する者。その他の転入者について、それぞれの転入理由を記してある。
イ 出生した者 翌年に宗門帳に記載されるので、宗門帳の年令は二歳となる。従って宗門帳には一歳はない。
ロ 他村からの転入者は身元確実な者でなくては転入出来なかった。檀那寺の寺請証文、庄屋の地請証文がなくては転入は出来なかった。他領の者との縁組は、あらかじめ所轄の奉行所に願書を出し許可を必要とした。
(2) 欠人帳 死亡・婚姻による転出者、その他の転住者、行方不明者が記録される。
イ 死亡のうち事故死は奉行所役人の検死を必要とした。
ロ 行方不明者は、一定の年数を経過した後、帰村の見込みがないと認められる者について奉行所の裁許を得て宗門帳から消除された。
(3) 村内の異動者 村内で婚姻、養子縁組、分家し別居する者、そのほかの別居者、村内で住居を変えた者等が記録された。これによって宗門帳の付替えが行われた。
右の諸帳は、湯舟沢村にそのものが現存していることから、木曽の村でもこの種の帳があったとみられる。
このほか、宗門改めに関係があるとみられる宝永五年の転出者の書上げがある。この文書は光西寺の襖の中から出たものでその一部分であるが、一八~三二年以前に遡って婚姻による坂下村への転出者が書上げられている。末尾に「右之通村中詮議仕、書付指上申候」とある。中津川市史にも岩村藩領青野村に享保九年同様の調査があったことが記してある。このように遡っての調査の根拠理由は定かでないが、山口村の書上げを今後の研究のために掲げておく。
(これより前欠) (山口村)
同村与三郎娘 くれ弐拾八歳
右くれ儀拾壱年以前元禄十一寅之年、濃州苗木領坂下村源助所ニ縁付罷有候
同村半十郎妹 阿ま三拾弐歳
右阿ま儀拾八年以前、元禄四未年、濃州苗木領坂下村又兵衛所へ縁付罷有候
同村 弥右衛門妹 みや三拾三歳
右みや義弐拾九年以前、延宝七申之年濃州苗木領坂下村善右衛門へ養子ニ遣シ罷有候
同村 弥平次妹 うめ 三拾歳
右うめ義拾壱年以前、元禄十二卯年濃州苗木領坂下村半六所へ縁付罷有候
同村 吉兵衛姉 はな 五拾八歳
右はな義三拾弐年以前、延宝四年己年濃州苗木領坂下村伝右衛門所へ縁付罷有候
同村 同人娘 まつ弐拾五歳
右まつ義拾壱年以前、元禄十二卯年濃州苗木領坂下村伝吉所へ縁付罷有候
〆八人
右之通村中詮義仕、書付指上申候以上
山口村庄屋共
宝永五年子三月五日
ふくしま寺社 御奉行所様
また外垣庄屋萬留帳天保三年から文久二年に至る間のうちに、婚姻による転入・転出者と村内の異動者の書上げが「乍恐奉願上候口上」と題して福島奉行所に提出されている。天保三年の書上げを掲げると次のとおりである。
乍恐奉願上候口上
一当村辰治郎家内なつ 弐拾歳
右之者落合村勘十妻ニ縁付参申候、宗旨代々禅宗当村光西寺旦那ニ而御座候得共、彼地善昌寺旦那ニ罷成度旨願申候故光西寺より請状取り善昌寺江遣シ申候
一当村仁左衛門妻ます 弐拾八歳
右之者当村仁左衛門妻ニ縁付参申候、宗旨代々禅宗彼地永昌寺旦那ニ而御座候得共、当村え参申候付当村光西寺旦那ニ罷成度旨願申候故、寺請・地請状取、当宗門御改より当村帳面ニ書上候様奉願上候
一当村照吉 弐拾九歳
母 五拾四歳
弟 九蔵 弐拾七歳
妹 しか 弐拾壱歳
同 さめ 拾六歳
右之者〆五人、是ハ当村鉄太郎家内ニ而御座候得共、当春より別居仕候
一当村弥助忰鍬吉 拾九歳
右之者当村儀平聟ニ、去春遣シ申候
一当村慶治郎伯父忠六 三拾四歳
右之者当村要助聟ニ、去春遣シ申候
一同人妹ぶん 弐拾五歳
右之者行方不知、去秋罷出申候
一当村弟助妹なみ 弐拾壱歳
右之者当村松之助妻ニ、去春参申候
一当村伝治妻なべ 弐拾六歳
右之者不縁ニ付、当村兄嘉助方え去秋罷帰申候
(以下九件省略)
右之者共宗旨代々禅宗当村光西寺旦那ニ而御座候得共、村内入替之儀ニ御座候得ハ寺替は不仕候
右之通奉願上候間宜敷被 仰付被下置候ハヽ難有仕合ニ奉存候以上
天保三年辰正月 山口村庄屋両人、組頭四人連署
右にみるように、他村間の転入・転出と村内における異動者の届出を毎年提出している。他村間の転入・転出は、地請証文・寺請証文によって身元確認が行われている。