貞享三年の幕令をうけ岩村藩では翌四年に鉄砲改めを行い、百姓の鉄砲を取り上げ、札を付して所持者に戻している。所持者は藩へ預り手形を出している。(中津川市史)
尾張藩では貞享五年二月領内の村々の鉄砲を家並に調査し、所持者ごとに所持する鉄砲一挺(ちょう)ごとに筒丈・玉匁と所持数を書上げさせた。また所持しない者については「所持仕らず候者」として家並に名簿を作らせ、「このほか隠置くもの一挺もこれなく候」と誓約させ請書を徴した。この調査による木曽谷中の鉄砲総数は一二三一挺であった。(王滝村誌)
翌元禄二年三月尾張藩は、幕府の示した基準により鉄砲改めを行った。この改めによって許可された鉄砲は次の三種類で、必要以上とみなされた鉄砲は取り上げられた。
(一) 不用心なる所に備えおく用心鉄砲
(二) 作毛を荒す鳥獣を追い払うための威嚇鉄砲
(三) 猟師渡世をする者の猟師鉄砲
威嚇鉄砲は空砲であったから、これで撃退困難な鳥獣の場合は、領主が幕府に申請して何月より何月までと期限を限って、実弾発射鉄砲を使用させることにした。この改めによって許可された鉄砲は、お上よりお預りとして所持者の遵守すべき条目を誓約して請書を差し出した。鉄砲所持者の心得条目の主なるものは次のとおりである。
一 猟師渡世のために許可になった上は、狩のほか一切悪事に使用しない。
一 鉄砲所持本人のほか、親子・兄弟たりとも貸したり預けたりしない。猟師を止めた場合には届け出て差図に従う。
一 みだりに他に譲渡しない。やむを得ない事情で他に譲らなければならないとき、子に譲るときは届け出て、指図をうける。
一 所持の鉄砲を損したときは、書付けをもって指図を仰ぎ、自分勝手にしない。
鉄砲改めは、この後宝永六年・正徳五年、享保十五年、寛延四年・安永四年・安政五年など江戸時代を通じて行われている。宝永六年改めの木曽谷中の総鉄砲数は一一七〇挺で貞享五年の書上げに比べて、六一挺減となっている。これは元禄二年の改めによって不許可になり取り上げられたものとみられる。
山口村・馬籠村とも鉄砲改帳は残っていないが、享保六年馬籠村明細書上帳(神坂区蜂谷保氏蔵)に、
「馬籠鉄砲 拾七丁、内六丁おどし筒、拾一丁猟師筒」
と書き上げられている。また安永四年の木曽谷中の鉄砲数書上(木曽福島町史所収)の中から関係分を抽出すると次のとおりである。
(表)
右の馬籠村の鉄砲数は、享保六年の書上げと変りがない。
享保六年村明細より馬籠村鉄砲数
(神坂蜂谷保氏所蔵)