江戸幕府の監察制度に、御料巡見使と諸国巡見使があった。諸国巡見使は、幕府領や大名領における政情を監察するのが目的であった。寛永一〇年正月一三日諸国に巡見使を出したのが始まりといわれる。
「寛永十年諸国巡見使覚」(教令類纂)によれば、五幾内・四国・紀伊・伊勢・東海道・陸奥・出羽・中国・九州の各組に分けて派遣された。巡見使は、使者一人に書院番・小姓組の二名を添えて一組とし、それぞれの地区に派遣された。巡見使の道中は供三五人・小荷駄一四疋・人足一〇人の定めであった。
六代将軍家綱の寛文七年の巡見使派遣は、全国を六地区に分け一斉に派遣された。
五代将軍綱吉の天和元年全国を八地区(五幾内筋・中国筋・四国筋・九州筋・北国筋・奥州筋・関東筋・東海道筋)に分けて、将軍の代替りごとに行うという型が定着し、その後七代の家継のときを除いて一二代家慶の天保九年まで、前後九回にわたって派遣された。一三代家定のときには、幕府財政逼迫から節倹を名目に延期しているうちに一四代家茂の代となり、文久二年の巡見は中止され目付使番の不時微行巡見が令された。一五代慶喜のときにも派遣は中止された。
初期の派遣は「仕置の善悪(よしあし)」に主眼がおかれて、各地方治世の状態を把握して政治の正常化を期した。八代吉宗の治世には最も効果を挙げたが、その後儀礼的なものとなった。