木曽谷中を通行した巡見使は、天保元年以降は東海道組で、巡見行路は伊豆・駿河・遠江・三河・伊賀・伊勢・志摩・尾張・美濃・飛驒・信濃・甲斐の一二ヵ国であった。木曽路へは飛驒から野麦峠を越え奈川村に入り、藪原から中山道を上って妻籠宿から清内路村を経て伊那路に向かった。巡見使の通行を一覧表にすると次のとおりである。
(表)
寛文七年閏二月一八日幕府は諸国巡見使派遣に先立って、二通の「覚書」をもって、国絵図・城絵図提出は無用、人馬改めもないとし、巡見使通行の道筋も通行に支障ある道橋の繕いのみにとどめ掃除は不要とし、宿所の手入れも一切不要、宿所なき村は寺にてもよいと諸事簡略にするよう命じている。しかし藩では通行の日程が知られると、所轄の奉行所では村々に先触を回付して、道筋の清掃・道橋の修理を命じ、宿泊所の整備など役人が村々に出張して見分し、宿泊所・昼食の料理についても細心の注意を与えた。また通行に当っては、幕領も私領も直接村役人に尋ねたので、代官や藩の役人の心配は一通りでなく、村役人がうっかりしゃべったりしては大変と、尋ねられたこと以外は言わないように申し渡し、巡見使が通過するまでは戦々兢々であった。道中駕籠脇にて質問に答えたが、人数や年貢など数字に関することは扇子に記しておき答えた。寛文七年の通行の様子は裏木曽の村に右のような記録が残っている。
宝永七年六月朔日付「江戸御巡見之覚」(県史史料編所収)と表題の岩郷庄屋文がある。これは通行に先立って村に注意事項を命じた文書であるが、「尚々郷中へも諸事堅く申付べく候、大切なるに御座候間かたくかたく」と前置している。要略して掲げると次のようである。
一このたび御巡見様方御通行に付、福島より上松境までの村内道路は入念にきれいに掃除いたし、道作りしておくこと。道へ差し出している藪の枝は切り払っておくこと。
一村内の町間・家数・役人高・御年貢・御年貢木、当村の人数・男女別・牛馬の数・寺社などに付お尋ねになるはずであるから用意しておくこと。
一宿村に先日回状で通知した宿泊所・昼食の料理の献立表を一同に見せておくこと。
さらに通行の前日六月八日付の回状には、通行に当っての心得を厳しく、次のように命じた。
一明日福島昼休みにて上松に通行されるから、上村・原野・上田の様子をよく聞いてそのとおりにすること。
一前沢渡橋までお迎えに出て、上松境までお見送りすること。
一道中道脇の民家でなにを尋ねられるかわからないから、すべて存ぜずとご返事すること。
一村役人は尋ねられたことのみについて答え、それ以外のことは申し上げてはならない。
一道橋はきれいに掃除いたし、藪などは切り払っておくこと。
一立砂(註)のことは、上田・原野の様子を聞き合せてよその村のとおりにすること。
(註) 立砂、盛砂ともいう。儀式または貴人を迎えるときに、車寄(玄関)の前の左右に川砂をうず高く盛った。初期の巡見使は「仕置の善悪(よしあし)」に主眼がおかれていたから、各藩も心を使い落度のないように努めた。これによって通行道筋の宿村では、道橋の修理から宿泊所の整備・料理に至るまで村々では大きな費となった。
宝暦一一年の巡見使の通行の際には、道橋の修理・掃除は不要とし、宿所もあり合せでよいとすべて簡略にするよう通達された。尾張藩の通達(外垣庄屋諸事留帳)を掲げると次のとおりである。
覚
一今度国々御料所村々巡見差遣され候付、右の面々相通り候道筋掃除并道橋一切作り申間敷候、地走として送り迎の者遣候儀、無用になすべき事
一右の面々 御朱印員数の外人馬入候は、其所定の駄賃銭これあれば、其定の通、定これなく所は近辺御定の割合を以駄賃銭これを取人馬出すべく候、御朱印の外に賃なしの人馬壱人壱疋も出すべからず事
一巡見通候道筋ニても、百姓農業の儀も少も遠慮無くいとなみ候様申付らるべく事
一私領村々に若巡見旅宿せしめ候共、少々の小屋掛・取繕は申すに及ばず、畳替無用となすべく古く候ても、苦からず候、賄道具等も有合候を借し申すべく事
一旅宿に成るべく家、一村に三軒これなく所は、寺又は村を隔候て成り共苦からざる事
一泊り昼休の場所にて入用の飯米・味噌・薪并酒肴・油・野菜等は其所の相場次第売候様に申付らるべき事
一其所にとれなき商売物脇より遣置売らせ申す間敷候、衣類諸道具は勿論酒肴にても持寄り売候儀堅く停止なすべく事
一右の面々金銀米銭・衣類道具は申すに及ばず、酒肴、菓子等まで一切受用これなく筈に候間、内々にても堅音信仕らず様に、知行所の者共へ申付らるべく候、若内々にて音信仕る旨相聞えるにおいては曲事になすべく事に候間、其旨急度申付らるべく候事
一何方見分仕候とも私領方よりの音物等も一切受用これなく筈に候間、音物は申すに及ばず使の飛脚出され候儀も堅無用になすべき事
一右の面々家来下々まで、在々において衣類道具等は買申さず様に申渡候間其意を得、商売仕らず様申付らるべく事
一野辺の地走として新規茶店等作り候儀堅無用になすべき事
右は今般御料所・国々之巡見差遣され候ニ付、往来の道筋は私領村々をも罷通候間、書面の条々先達て地頭より領地村々え申触相違無に急度申付らるべく候以上
辰(宝暦十一)八月
巡見使一行の通行がどのようなものであったか、一〇代家治の宝暦一一年に派遣された巡見使にみると、一行三名の同勢は一一四人で、この通行にかかる荷物送り人足は、五〇〇名にも達した。その様子を清内路村誌・外垣庄屋萬留帳によって記すと次のようである。
(表)
妻籠宿から清内路村まで、一行の荷物送り人足は、与川村から下九ヵ村に次にように割当られた。
与川村四六人、柿其村二六人、三留村四三人、妻籠村二〇人、蘭村五二人、馬籠村二八人、湯舟沢村五三人、山口村九五人、田立村八七人、計四五〇人
右は、今般公儀御巡見衆来る一二日木曽の内へ御入込なされ候、十五日晩妻籠宿泊ニて十六日伊奈郡へ御移りなされ候ニ付、人足割付申付候間、来る十五日の晩妻籠宿へ右割付の人足庄屋・組頭壱人ツヽ相添罷越、十六日妻籠より清内路迄荷物持送り申べく候
三名の巡見使の荷物送りに四五〇人が割当られた。道中の荷物がどのようであったか、御使番三好勝之助についてみると次のようであった(清内路村誌より)。
(表)
三好勝之助だけで人足は、分持人足が一一〇人・駕籠人足六一人・馬添人足三〇人の合計二〇一人、それに馬二〇疋、駕籠一三挺が士分二七人、仲間一七人が付添った。駕籠人足は巡見使駕籠一挺に一二人、供駕籠一挺に一〇人、宿駕籠一挺には各五人の人足で分担した。三人の巡見使に要した人足は五一四人・馬七〇疋・駕籠三五挺であった。