天保九年の巡見使

467 ~ 471 / 667ページ
一二代将軍家慶は天保八年四月に将軍に就任、一二月に諸国巡見使派遣の旨が老中から触出された。巡見使の通行に当っては、寛文七年の触書と同様に諸国簡略の旨申渡されている。道橋の修理は無用と申し渡されているが、中山道筋からはずれた所はそうもいかなかったとみえ、福島役所は四月六日蘭村内の道作りを次のように達している。
 回状を以って申入候、就は、公儀御巡見御通ニ付、蘭村内道橋作り方人夫左の通割符仰付られ候間、急度相勤申べく候
 一人足弐拾人    山口村
 一同 拾八人    田立村
 一同  拾人    湯舟沢村
   外ニ証人壱人宛
 右の通割符仰付られ候間、来ル九日夕右村ニ罷越て逗留罷在、道作り方奉行先達て遣され候筈ニ候間差図次第相勤申すべく候、人足持物の儀は、鍬・斧・鶴はし・唐鍬等見合持参申すべく候、
   四月六日
 
右の出人夫の報告書を次のように提出している。これによると泊り込みで四日を要したことになる。
 
      覚
 一 九拾人     山口村出人夫
 右は今般御巡見様御通行道筋妻籠村橋場入口より蘭村内木曽峠御境迄、清内路通道橋御普請の節、出入夫割符仰せ付られ罷出相勤申候処相違御座無く候
 
 蘭村内の道作りは前回の宝暦一一年通行の際にも行っている。裏木曽三ヵ村でも巡見使通行の際には、橋板の張替道作りを行っているから、中山道からはずれた道がどの様な状態であったか知れる。
 天保九年四月木曽谷中を通行した巡見使土屋一左衛門・設楽甚十郎・水野藤治郎の一行は四月二四日妻籠宿に宿泊し、翌二五日清内路村に通行した。馬籠宿年寄大脇兵右衛門の諸事覚帳のうちに「御巡見御通行遊ばされ候ニ付御宿・御泊・御継所之出張諸事書留覚」に、馬籠宿役人一同が妻籠宿に出張助役を命ぜられ勤務した記録がある。
これによって巡見使の様子を掲げると次のようであった。
 
 御継所本会所詰
 当日脇本陣添亭主役                          島崎悦次郎
 宿御出迎手札(註)馬籠宿役人と書候                   原三右衛門
 当日大野屋添亭主役                          蜂谷源右衛門
 当日人馬御継所                            大脇兵右衛門
                                    蜂谷利助
                                組頭  蜂谷源八郎
                                同   稲葉重兵衛
 稲葉重兵衛儀、野尻宿御旅館え御気嫌伺ニ罷出候
 下働キ者  馬指喜太郎、孫兵衛、藤兵衛、勇蔵、藤七、茂助、小使銀治郎
                               組頭 久助、同 五兵衛
 廿五日朝御継立強雨ニ付、清内路迄人足宰領ニ参リ候
 福島役所より御出張の御役人
 一御用給(たまわ)り                     御用人  川口寛次郎
     妻籠宿御着御見届の上、夜五ツ時三留野宿、御引取遊ばされ候
 一御用懸り                         御用人  磯野定右衛門
     人馬継立御見届方
 一御用懸り                        御用達役所 原九郎右衛門
    諸事給りなされ御役、谷中御付添妻籠宿ニ御泊リ翌廿五日
    朝清内路迄御案内遊ばされ候
 一御地走の為と御休泊御附添、清内路村迄御越なされ候     御医師 壱人
 一妻籠御旅館へ四月以前ニ出張、諸事道具并夜具調       物役所下役 勝野澄蔵
  人馬継方共兼ね御勤
 一原九郎右衛門様え随身、諸事御用給り御附添、清内路御供申候、御用達御下役 川北龍助
                                     下条直蔵
 御巡見御役人旅館
(表)
  御三頭様ニて御同勢百弐拾人程
 右の巡見使一行同勢一二〇人に荷物持送り人足、土屋一左衛門に九五人、設楽甚十郎に一〇五人、水野藤治郎に八六人計二八六人と、ほかに臨時宿駕籠三七挺この人足一一一人、合せて三九七人の人足を要した。道中にはこのほかに予備に付添う人足・長持宰領・先払い・立辻人足など荷持人足のほかにも人員を要した。
 この通行に妻籠宿に割付られた人足は、三留野宿四〇人・妻籠在郷五〇人・馬籠宿五〇人・蘭村七六人・田立村一一三人・山口村一一六人・湯舟沢村七五人の計五二〇人であった。
 また荷物送りに必要とした馬は、妻籠宿一三匹・馬籠宿一三匹・蘭村雌馬一〇疋計三六匹が勤めた。
 宿所には夜具・布団・蚊帳など諸道具が、馬籠宿大黒屋・八幡屋・俵屋・丸亀屋・扇屋・米屋を始め、山口村・蘭村・三留野宿に割付られた。
 巡見使に供した料理について次のように記している。
 
 一御公役様方之御地走の儀は、美濃筋并三ヵ村(裏木曽三か村)通は、尾州様より御出張御役人中様方御越添にて魚の棚料理人(仕出屋板前)召連御休泊(宿泊・昼食)とも差上候得共、木曽谷中の儀は山村甚兵衛様え御任せ仰せ付られ候ニ付、諸事宿方賄にて御休泊とも一汁三菜に仰せ付られ指上申候、なお又御酒の儀は内々にて肴類重詰にいたし、其宿の亭主心得にして指上申様御用いなされ候
この記録の最後に、
 
 一廿四日・廿五日両日共至て強雨にて、御継立甚混雑仕候得共、首尾能御見立(見送り)相済、出張御役人中様え御伺宿方へ引取申候、今般出張仕候ニ付荒増(あらまし)(概略)書き記、
 御荷物人足配符割は、別紙ニ御座候方、左様相心得申すべく候以上
 
 両日強雨にて混雑したが、首尾よくお見送りが出来、福島役所の出張役人様方にあいさつし帰宅した。この記録に継所の人足割当書は別紙にあるから、後々の参考にするようにと付け加えている。そしてまた今回出張した宿方の者の飯米・諸道具・筆墨・紙入箱、燭台とも持参した。旅籠茶代、そのほか諸雑用は残らず宿の公用である。この後も「右の通りに相心得申すべく候」と、子孫への心構を教えている。