尾張藩の地方支配

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尾張藩は、国奉行・勘定奉行・寺社奉行の三奉行を置いていた。国奉行の下に郡奉行を置いて地方行政に当らせていたが、元和元年以降美濃領の編入されるに伴い、寛永一五年尾州郡奉行と濃州郡奉行の両役所を設けそれぞれを管轄させた。同一九年一二月三ヵ村代官をおき、裏木曽三ヵ村を管轄させた。木曽は慶長五年関が原役後家康の直轄地としてその管理は山村氏に委任されていたから、尾張藩編入後もそのまま山村氏が木曽代官としてその任にあった。寛文五年尾張藩の林政改革により、木曽山と木曽川の運送管理は藩直轄となったが、地方管理は山村氏の手に残された。享保の林政改革に伴い裏木曽三か村代官は同一二年大代官兼任となり同一五年三か村代官の職は廃止になった。天明元年(一七八一)国奉行所が類焼しこの機に、国奉行の下僚である郡奉行の職務に改革があり、郡奉行の職制を廃し、領内各所に所付代官をおいて村々の行政に対する疎遠の弊を改めた。その後逐次代官所は増設されて領内に一二ヵ所設けられた。そして藩庁に大代官をおいて統轄した。国奉行所は天明八年七月に改革があり、地方大奉行と改称せられたが寛政六年六月、同奉行の職務は勘定奉行の職務に吸収して、地方懸を設け公事方懸を兼任させた。この後は明治維新の改革まで変更はなかった。