家康の直轄地時代から地方・山方ならびに木曽川運材管理を委任されてきた。そのうち運材管理には錦織に川並奉行所が設けられ、久々利在住の木曽衆が交替で勤番していた。山方支配は材木奉行をおいたが寺社奉行兼務であった。財政面は勘定奉行をおき、山村家の知行地には久々利と中津川に私設の代官をおき事務処理をした。
寛文四年(一六六四)尾張藩の谷中巡見によって、山林荒廃の実情が藩当局に知れたために、翌五年上松に藩の材木奉行所が創設され、山村氏の管理・経営は藩の直轄となり、山村氏は地方(ぢかた)(村方)のみの支配となった。これは山林の保護・経営の政策を確立する必要に迫られたことによってなされたものである。このことについては山林の項で詳述することにする。木曽の管理支配は山方と村方に管掌を分け、山方一切は上松材木奉行の所轄とし、村方一切は山村家の福島地方役所の所管の二本建となった。木曽川運材は錦織川並奉行をおき、奉行の一人は上松奉行を兼役とした。山村家から派遣していた役人は引き揚げた。
福島地方役所は山村家の役所で村方一切を取扱い、年寄役所・材木役所・勘定所の三部門をもって構成した。後享保の林政改革に際し、享保九年上松材木役所と勘定所を合して用達役所とし、尾張藩は大村源兵衛を派遣し、上松役所・山村役所三者の立合行政をとったが、元文五年林政改革の成果が一応あがったとして元に復し、上松役所は、木曽材木奉行所と改めた。
山村地方役所の所管事項は、村方一般の年貢・課役を初めとして、その他すべての村政に関する事務、山林の監督保護に関する盗背伐・山火事防止のため、村民をして留山・巣山・明山の見回り監督などである。