地方支配に下代官をおく

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下代官は山村氏の私設代官である。秀吉時代の木曽代官石川備前守が、その下に木曽の旧臣たちを登用して数村を管理せしめたが、山村氏もまたこれを踏襲して各村に下代官をおいた。下代官の任命は、山村家の家中の者ばかりでなく、一般から有力なる者を任命している。享保九年(一七二四)谷中検地後は廃止され、下代官の職務は福島勘定所に吸収された。
 下代官の任務は、宿村の庄屋との間において年貢の収納が主な事務であった。下代官の給料はないが、収納年貢高の一分五厘を手数料として下付されるほかに、村民の労役負担があった。
 慶長一三年(一六〇八)五月山村良勝が、上松村あてに出した「年貢課役等定書」(県史資料編巻六所収)のうちに、「下代・肝煎日手間の事、年中一人にて六人つゝ仕るべく候此の外壱人もつかわれまじく候右のうち二人は肝煎分也是は薪、馬の草のために候事」とある。また「岩郷村御代官免の覚」(村井氏所蔵記録享保九年)には、下代官への納物として大豆・薪・炭・干草・雉子(きじ)・籾糖など書上げられており、その末尾に「右御代官へ相勤候品に本役壱人にて年中に七人宛手間勤申す筈に御定に御座候ども、手間御使い成さる事御座なく候、七人に手間代りに右の品々相勤申候」と記している。右の文書によると下代官に勤める労役は、初期には本役一人に付六人後に七人となっているが、いつころからか労役を必要としなくなり、その代りに物品を納めるようになったと述べている。納物は村によって一様ではなかったようである。