はじめに

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木曽の地域が、古代には美濃国に属していたことは前にみてきたとおりである。近世初頭天正一八年(一五九〇)七月木曽の領主木曽義昌は、豊臣秀吉によって下総国阿知戸に移封され、木曽は秀吉の蔵入地となった。秀吉は犬山城主石川兵蔵を木曽代官に任じ、木曽山・川一切の支配を任せた。石川兵蔵は木曽氏の遺臣六名を私設代官に任じ、木曽の村々を管轄させた。「木曽古今誌」によると、代官の名とその管轄は次のようになっている。
(表)
右によると、神辺休安の管轄村は三留野より下村と記されていて個々の村名がわからないが、妻籠・馬籠・湯舟沢・山口・田立村であることは間違いない。
 木曽谷中の村が全部揃ってわかるのは、慶長一八年(一六一三)山村甚兵衛が駿府の家康の勘定所に提出した「木曽の成箇帳」で、これには次の二八ヵ村が記されている。
 田立村・山口村・湯舟沢村・馬籠村・妻籠村・三留野村・野尻村・長野村・殿村・須原村・荻原村・上松村・三尾村・岩郷村・福島村・黒沢村・王滝村・末川村・黒川村・上田村・原野村・宮越村・菅村・藪原村・荻曽村・奈川村・奈良井村・贄川村
 慶長七年家康は中仙道に宿駅制を敷き、木曽地内には次の一一宿が定められた。
 馬籠・妻籠・三留野・野尻・須原・上松・福島・宮越・藪原・奈良井・贄川
 正保四年(一六四七)の「信濃国郷牒」(県史史料編第九巻)によると、二八ヵ村のうち王滝村に枝郷「滝越村」があるが、これは王滝村誌によると元禄一二年三月一四日王滝村に合併して消滅したとある。以降二八ヵ村であったが、享保九年(一七二四)木曽の総検地の際妻籠村の支村蘭村が独立し、野尻村から与川村が独立、三留野村の出村であった柿其村が独立、末川村から西野村が独立して都合四ヵ村が増加して三二ヵ村となり明治に及んだ。
 木曽谷中の宿村を一覧表にすると第4表のとおりである。
(表)第4表 木曾谷中の村