木曽の郡名

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古代から木曽の地域は美濃国恵奈郡であったことは、第二章に見てきたとおりである。中世代の木曽の神社の棟札に「美濃国恵奈郡」と記したものがかなりみられる。中世末から江戸初期になると「木曽」と記した文書が散見されるが郡名は見当らない。慶長五年関が原役当時の家康文書には「信州木曽中諸侍」とみえ、そのほかにも「木曽にて」とか、「木曽の内」などと記したものがある。そして山口村諏訪神社慶長一六年一一月の棟札には「恵那郡木曽山口村」と記されている。
 また中世代の享徳元年(一四五二)の定勝寺文書に「木曽庄」と庄名を記したものがある、そのほかにも木曽氏の文書の中に同様のものがあるが、荘園のなかに「木曽庄」という荘園名は見当らない。これは沼田氏が、木曽氏を称するようになって「木曽庄」を使用するようになったのではないかといわれている。
 正保国絵図ならびに郷帳には「信濃国木曽」と記されて郡付はされていない。当村諏訪神社の万治二年(一六五九)の棟札には「中仙道木曽山口村」と記し、郡付のないのは同様である。江戸期に入ると「恵那郡」と郡名を記したのは見当らなくなるから、住民の意識のなかに恵那郡は消滅して、「木曽」と書くようになった。しかし郡付がないから「木曽」は郡ではなかった。こうした状態は元禄の国絵図の完成(元禄一五年)によって解決した。そのいきさつは次のとおりである。
 正保元年(一六四四)幕府は諸大名に国絵図の調製を命じた。このとき山村家が木曽の絵図に添付して提出した木曽の郷帳に、「信濃国木曽」と記し、「筑摩郡」の郡付を落してしまった。そのため絵図の木曽は「筑摩郡」の境界線の外に置かれてしまった。郷帳も信濃国木曽と記され郡付はない(県史史料編第九巻参照)。
 元禄九年幕府は第二回目の国絵図の調製を命じ、資料の提出を求めた。前回の正保の絵図の道筋や村の地勢などの誤りが指摘された。山村家は元禄一一~一五年にかけて訂正願(県史史料編巻六所収)を提出している。そのうちに「郡付の脱漏に関する」文書がある。原文のまま掲げると次のとおりである。
 
 一信州木曽之儀、今度御帳ニ筑摩郡と書出申ニ付、正保二酉年古絵図并郷帳ニ者郡付無之、其上正保之御絵図ニ筑摩郡墨引之外ニ木曽有之由、依之御不審之御尋候、其趣吟味致候処ニ、先年者如何様之訳ニ而御絵図・郷帳共ニ郡付不仕候哉其段不分明候、然共正保二酉年以降度々 公儀江差上候書付ニも木曽筑摩郡と書上来申候、此度筑摩郡と仕候、重而御不審之儀御座候ハゝ可被仰聞候、為後日仍如件
    元禄十二年卯二月廿二日                       山村甚兵衛 印判
     水野隼人正殿
 元禄国絵図後、木曽は「信州筑摩郡」と郡付がされるようになり、村々の文書にも郡付がみられるようになった。