国絵図

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幕府の調製した国絵図は、正保元年、元禄九年・天保六年の三度である。正保の国絵図は明暦年中(一六五五~五八)、元禄度は同一五年に、天保度は同九年に完成した。幕府が三回にわたって国絵図を作製したのは境界・道路・山川などの変化のみならず、新田開発などに伴い石高の増加を取り入れて現状を明示するためであった。元禄国絵図は前の正保絵図を訂正し、狩野派画家によって諸国一定の様式に描かせた。大きさは国の広狭によって一定ではないが、大は六メートル平方、小は二メートル平方に近いものなどまちまちである。良質の料紙を貼り合わせて用い、極彩色を施し山岳・樹木なども細密に描き、その美麗壮大な形状はよく幕府の権威を象徴している。縮尺は、一里を六寸とする二万一六〇〇分の一とし道路には一里塚の表示も加えている。郡ごとに色分け、図の一隅に郡名・石高・村数を掲げており、その数字は郷帳の村数に一致する。また実測図ではないが、方位・地形・道路・山川・境界などはかなり正確であるといわれる。幕府は元禄絵図に基づいて日本総図を作ったが誤差があったので、享保四年に方位測量を行って訂正を加え、同八年に日本絵図を完成した。記録によれば正保絵図は合計七七枚、元禄絵図は八四枚、天保絵図は八三枚であった。

山口・馬籠村付近の絵図

正保の信濃国絵図から(県史史料編近世九巻付録)
 県史史料編近世第九巻の付録に、正保の信濃国絵図の写図がある。この絵図から山口・馬籠村の関係部分を抄出したのが前頁の図版である。この図には「山口村より濃州境きびうの渡迄一六町四〇間」と書き込まれているが、青木辺から渡しに至る道路が描いてない。当時は街道として公認されていなかったのかどうか、その理由はわからない。今後の研究に委ねたい。