庄屋の呼称は、中世の荘家・荘官の屋敷の名から出たともいわれる。一般的には庄屋は関西・名主は関東の呼称といわれるが、同じ地域でも領主により庄屋であったり名主であったり一定ではない。庄屋であった所が関東から領主が移封されて名主と呼ぶようになったところもある。
木曽では、江戸初期には肝煎といっていた。王滝村の寛永一四年の裏木曽三ヵ村あての盗伐注進文書は、肝煎松原彦七となっている。寛永三、四年の尾張藩国奉行から裏木曽三ヵ村あての文書は庄屋になっている。また寛永一八年五月二七日王滝村あてキリシタン取締文書は、肝煎あてになっているが、本文のなかには「庄屋・組頭・十人組」と記されているから、尾張藩では庄屋を用いていたことがわかる。山口村の万治二年(一六五九)諏訪神社の棟札には「庄屋[牧野六兵衛 楯惣左衛門]」と記されているから、山口村では早くから庄屋を呼称していることがわかる。また県史史料編巻六所収の次の文書には庄屋が使われている。
寛文五年三月 湯舟沢村鷹巣下し権三郎等槇皮剝盗人見分注進状(文中に「庄や衆・組頭中無念ニ候間」)
寛文十年二月 岩郷村宗門改請証文(木曽岩郷村庄屋郷左衛門)
寛文十年六月 定勝寺住持代替につき荻原村総旦那差出証文(荻原村庄屋上田新五左衛門)
右文書にみられるように、万治・寛文年代には庄屋の呼称が使われるようになったことがわかるが、また一方肝煎を使用している向きもあり、まちまちである。その後次第に庄屋が一般化して、享保の検地後には庄屋が定着した。
庄屋は一般的には、中世の武士帰農者や有力農民で、家柄の者のうちから任命されている。木曽の庄屋は、木曽氏の旧臣で村に定着した人々が世襲で任命されている。世襲制では、ときには嗣子が幼年で任命されることもあったが、この場合には分家または親戚のうちから後見人を立て、成年に達するまで補佐した。
山口村の庄屋は、江戸当初には牧野孫右衛門一名であったが、万治元年(一六五八)に楯惣左衛門が任命されて二名となり、以降外垣家(牧野五代目半三郎から外垣姓に改めている)と楯家が世襲して明治に及んだ。