村民の上に立って統率し、このような多岐多様の任務を全うしていかなければならなかった庄屋には、一般村民とは異なった地位・能力が必要になってくる。
(1) 庄屋は村民の上に立って命令者の地位を保つ必要があった。
寛永二〇年(一六四三)三月、幕府の土民仕置の条々に、庄屋とその妻子は、絹・紬、百姓は木綿に限るとして衣服の面でも庄屋の地位が一般村民と異なっていた。
庄屋の中には「上下御免」や「苗字帯刀御免」など、士分待遇の特典が免許された者もある。「上下御免」は裃(肩衣と袴)のことで、百姓は着用することが出来なかったが、庄屋は役向・公式の場合にはその着用が免許されていた。苗字と帯刀御免は別個のもので、苗字だけ免許の場合もあるが、帯刀が免許される場合は「苗字帯刀御免」となる。これは本人一代限りが普通であるが、なかには「永代御免」もある。庄屋にこれらの特典が免許になるのは江戸初期ころからで、中期ころから次第に多くなった。
(2) 庄屋は村民に公平で親身な人格でなければならなかった。
幕府の農民の基本を示した慶安二年の触書の冒頭に「公儀法度を恐れ地頭代官の事をおろそかに存ぜす。さて又名主(庄屋)組頭をば真の親とも思うべきこと」と示し、また「庄屋組頭を勤める者は、自身の身代をよくし、地位を保つように心掛けなければ百姓に命令しても侮られることがあるから、常に心掛申すべきこと」と、人格・地位を保つことを申し渡している。
また庄屋は「心の中では仲悪く思っている者にも無理をいわず、仲のよい者でもえこひいきなく百姓をいたわり、年貢や課役の割付は高下なく平等に申し付けるべきこと」といい、毎年出される年貢免状の末尾には「庄屋・組頭・小百姓立合申し分なくように割付いたし、期日までにきっと完納すること」と、村民に対しては公平でなければならないとしている。
(3) 庄屋には資産が必要であった。
年貢の割付は村あてに出され、期日までに納まらない者が出た場合には、庄屋が立て替えなければならなかった。村入用においても、勘定は年の暮であったから、庄屋が立て替えしなければならないことがしばしばあった。このようなことからも、また庄屋には領主から支給される給与もなかったから、広範囲の職務に専念するには資産がなくては全うすることはかなわなかった。(木曽谷中村の庄屋給の支給は享保一四年からである。)
庄屋の職務を全うするには、地位・能力とともに、資産がなくては困難であったことがうかがわれる一文が、楯庄屋伝六の「正徳二年萬覚之記録」にある。これによると楯庄屋は、江戸初期からの庄屋ではなく、楯家二代目の惣左衛門が万治二年(一六五八)初めて庄屋役を仰せ付けられて、三五年間勤め、元禄五年に三代目伝六が跡目を継いで、正徳二年までに五四年間勤めてきた。同年暮に伝六は、近ごろ病身になり、殊に「庄屋地」でない者が父の代より庄屋役を勤めてきたが、費えが多く家計が立ちいかなくなってきた。その上に分家二軒を抱えてその面倒もみなければならず、耕作にも手間が回りかね、年貢上納にも差支えるようになったから、これ以上庄屋職を勤めることは出来ないから、是非退職したいということであった。
当時の楯家は、二軒の分家が出ているが年貢上納責任者は本家伝六が負っていた。分家を含めた年貢高は次のようになっていた。
(表)
この分家の様子をみると、初代惣左衛門の代に第一分家太郎右衛門が財産を二等分して一石八斗七升二合七勺二才を分与され、二代目惣左衛門の代に第二分家惣兵衛が本家の年貢高の三分の一に当る五斗七升七合五才を分与された。これによって本家分は一石二斗九升五合二勺三才となった。
当時の山口村の年貢高は九一石七斗二升八合で役家(年貢負坦責任者)は八三軒であったから、一軒当りの平均年貢高は一石一斗五合となり、楯本家の年貢高はほぼ村の平均年貢高になる。一方外垣家の年貢高は推定七石五斗とみられるから、これに比すると楯家の年貢高はこれの約六分の一である。この状態からも庄屋職に専念するのは困難であったとうかがわれる。
伝六の庄屋役退職の申し入れについて村方では、一三組の組頭が再三寄合い協議したが、ほかに庄屋を勤める者がないから本年中は是非とも勤めてくれるようにと頼み退職を聞き入れなかった。翌三年の暮になっても村方では同様の理由を繰返すのみで退職を認めず、翌四年、五年と解決しないまま経過した。享保元年になり村方では、ほかに庄屋を勤める者がないから伝六の伜藤十郎に庄屋役を勤めてくれるように申し入れ、村方より年々米二石四斗を助役する条件で一応の解決をみた。同年二月庄屋外垣半三郎・組頭連署で、伝六の伜藤十郎に後役を仰せ付け下されたいと福島役所に願書を提出した。
乍恐御願申上候口上
当村庄屋伝六儀日ごろ病身に罷りなり、殊に合地にて庄屋役勤り申さず候、外にて当村に後役相勤申すべき者御座無く候に付、藤十郎に庄屋役申付候様に御願申し上げ候
右の通り百姓中納得仕り御願申し上げ候、庄屋後役の儀藤十郎え仰せ付下され候ハゝ有難存じ奉り候
享保元年申二月 (山口村庄屋半三郎・組頭連名)
その後庄屋半三郎・組頭が再三福島役所に出向いて願の結果、藤十郎が後役を勤めることで伝六の退職の内意が得られたので、伝六の退職願を藤十郎・組頭吉左衛門が携えて福島役所に提出した。
一私庄屋役の儀親藤十郎代に仰せ付けられ、只今迄相勤申し候得共、合地田地にて御座候ハゝ勤申すべからす候
殊に私病身に相成勤り申さず候に付御願申し上げ候
享保元年申十月 伝六
同年一一月村方より伝六の後役を藤十郎に勤めてくれるよう頼んだしるしに、米二石四斗ずつ年々助役することを約束した次の手形がある。(宮下敬三氏蔵)
一札之事
一伝六庄屋之儀庄屋地ニて無御座候故、親藤十郎代ニ被仰付、只今迄御勤被成候得共、合地ニテ勤リ不申、殊ニ病身ニ罷成勤不申付、以前之通リ人足役ニ被仰付被下候様御公儀様へ御願被成候処、御代官ニて願書之趣御聞届ケ被成て、後役ハいづれニても相極申様ニ村方へ被仰付候、村中寄合相談仕候得共、村方ニて外ニ勤可申仁、当村無御座ニ付、少々之了簡付ヲ藤十郎相頼申度と御代官様え御内意ねがえば、庄屋地ニて無之候得ハ、村方より頼分印付頼之義尤ニ被仰付、村中相談納得之上ニて、貴殿達て御願申候
只今迄之通御勤被下候印(しるし)ニ村中より米弐石四斗宛、御勤被下候内ハ年々遺可申筈ニ相定申候
為後日手形仍而如件
享保元年申十一月廿日
享保元年一二月二六日村方より組頭二名福島役所に出頭して、藤十郎の後役願を提出し、伝六の退職は許可された。藤十郎は翌二年正月御年礼の節、御目見得して、庄屋職を任命された。