庄屋給

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庄屋には資産を必要としたことは前項でみたとおりであるが、始めには領主から定まった給与は支給されていなかった。慶長一三年山村良勝が村々に令した課役等の定書に、肝煎の日手間年中に一人に付二人肝煎に奉仕することを申し渡し、これは薪・馬のまぐさのためとしている。また村々では下代官に椀飯納物を出しているがこれと同様に庄屋に対しても納物をした様子がみられるが、この制度は享保九年の検地後廃止された。
 このほかに庄屋引高というものがあった。これは村高(木曽では年貢高)に掛かる課役などの一部を村方で負担することをいう。この慣習は木曽のほかの地域でもあり、負担割合は二分の一程度が普通であった。宝暦八年の記録によると、外垣庄屋の場合は年貢高一五石九斗余であったからその二分の一に当る八石分を、楯庄屋は年貢高四石九合であったから全部に掛かる分を村方で負担助役した。山口村ではこの庄屋引高は、庄屋給支給以後もそのまま温存されていた。このような村民からの助役はあったが、無給で勤めることは困難であった。
 享保一〇年(一七二五)木曽谷中三二ヵ村庄屋連名で庄屋給の支給を願い出たが、許可にならなかった。同一三年一〇月再び下付願を福島役所に提出し、藩庁に申達されるよう願い出た。
 
 一去ル己年(享保一〇年)谷中庄屋給之儀御願申上候処、御時節柄故御取上無御座、今年迄指控罷在候得共、連々困窮仕、御役難相勤御座候間、御慈悲ニ庄屋給為 仰付被下置候様ニ乍恐奉願候
  右之趣被為 聞召分、宜敷 尾州御公儀様江乍恐被 仰上被下置候ハゝ難有可奉存候以上
    享保十三年申十月                 (木曽谷中三二ヵ村宿村庄屋四〇名連名)
 
この願書の写しは岩郷庄屋家のものである。岩郷庄屋はこの願書の末尾に次の「覚書」を付している。
 
 右之御願被仰出ハ、尾州 御領内中給人衆様御知行所之庄屋えハ給人様より被下候由、御蔵入之庄屋ヘハ御上より被下候、御百姓中より立置申候庄屋ニ付、御上ヘ願之儀御取上不被成候、然共追而御手引被遊可被下由ニ被仰出候
     申十月二日                   (木曽福島町岩郷村井喜代志氏蔵)
 
 これによると尾張藩領での庄屋給の支給は、給人の知行地では給人より支給されていたが、蔵入地(直轄地)では支給されていなかった。この理由について、この文書には蔵入地の庄屋は「御百姓中より立置申候庄屋ニ付」と記しているが、蔵入地の庄屋は藩の勘定奉行所より任命されており、この意味が判然としない。現在は支給されていないが、福島代官より支給になるように手引して遣すと仰せられたと記している。
 享保一四年から庄屋給が支給になった。同年五月の山林規制緩和の指示文中にそのいきさつが記されている。
 
 一庄屋共庄屋給被下候こと相願候ニ付、御吟味有之候処、外御領分中御蔵入之分庄屋給被下候義無之事候へ共、木曽之義ハ前々より庄屋御入用村方より取立候義も無之、前広庄屋附の田畑其外人足役取来候処、検地已来御年貢附ニ罷成候故、格別ニ相立今度庄屋給米三石宛被下候
 
 右の文面によると、庄屋給支給のいきさつについて、以前には庄屋付の免祖地の田畑があったようにみえ、そのほか人足役を取り仕切ってきたが、検地後は廃止になったから特別に考慮されて庄屋給が支給されるようになったと記している。以前には庄屋付の田畑があり、享保の検地後は年貢付になったとしているから、これは免租地であったようにみられる。この庄屋付の田畑のわかる文書はなく判然としないが、前述した「正徳二年楯庄屋伝六の覚書」に、この「庄屋付の田畑」に関係があると思われる一文がある。抜書すると「寛文五年巳の冬御公儀様より、黒岩半田地庄屋勤ニ付御預ケ下され候、延宝元年まで九年間作り、下代官松井善右衛門様より御公儀へ御返上仕るよう仰せ付られ返上仕候」とある。「半田地」と記しているがこの文字が当を得ているか定かでないが、これが右の「庄屋付の田畑」ではなかったかと思う。また「同覚書」のなかで、伝六は庄屋役退職し以前の人足役のみ仰せ付けられたいといっている。人足役は後の文化一四年の文書によると四人扶持が給せられている。庄屋給支給以前には庄屋にこのような恩恵的な特典が与えられていたように思える。
 なお「半田地」を知る確かな資料は見当らないが、中世の荘園の荘官の下役である「定使」に給せられていた「定使給田」に相当するものではなかったかとも思われるが定かでない。今後の研究にまちたい。