庄屋の困窮

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享保一三年の庄屋給支給願に「連々困窮仕り御役相勤難く御座候間」と述べているように、江戸中期ごろには庄屋の困窮が多くなった。幕藩の支配体制が整備されるにつれて行政事務が増加し庄屋だけでは手がまわりかね、補佐役として組頭が置かれるようになったが、庄屋会所の実務は庄屋一人であった。村相互間の連絡や役所への連絡が増加し、農耕を顧りみる暇はなく無給で専念しなければならなかった。尾張藩領では世襲で交代することがなかったから、庄屋家の家計は次第に逼迫(ひっぱく)の度を増していった。資産家であった庄屋家も借財に苦しむようになった。正徳二年山口村庄屋伝六が家事の都合上庄屋勤務が困難になったとして村方に退職を申し出たことについて前述したが、このとき村方は村内にほかに庄屋を勤める者がいないという理由で辞職を認めず、五年間にわたって紛争を続けた末、村方から年々米二石四斗を助役する条件で一応の落着をした。村内に庄屋の引き受け手がなかったのは、能力のある人物がなかったのではなく、経済的理由が原因であったとみられる。享保一四年から庄屋給三石ずつ支給になったが、この額は手当に過ぎないものであった。武士の最下級の足軽級の俸給は五両二人扶持前後であったが、この給与では家族の内職に頼らなければ家計の維持は困難であった。庄屋給の玄米三石は、右足軽の給与に比するとその三割五分程度であるから、ほかに相当の資産がなくては庄屋勤めは困難であったことがわかる。
 江戸中期後の庄屋の窮状の様子は、宝暦六年の尾張藩家臣松平君山が順村した見聞記「濃州徇行記」に、「川上村庄屋は近郷に聞えた名家であるが、今は伝来の武具等売払い、離れの客座敷も朽ち果て礎石ばかり残すのみ」と記している。山口村外垣庄屋寛延三年の「萬留帳」に、楯庄屋の窮状を訴えた「乍恐奉願上口上覚」がある。
 一山口村庄屋平左衛門儀、去ル辰年(寛保元年)御拝借金弐拾両御願申上候処、御吟味之上御金拾両無利十ヶ年賦ニ御拝借被仰付難有奉存、居宅葺替等仕罷有候得共、連々之借金借米等大借ニ罷成、下人(下男)等召抱耕作仕候方便も難成、就夫御願申上候ハ、五ヶ年之間田畑不残作人相頼、只今迄之居宅え入置平左衛門義ハ裏屋ヘ引込罷有、庄屋役目之儀ハ万端只今迄之通ニ相勤申度、御願申上候間願之通被仰付被下置候ハゞ難有奉存候
  右之通御願申上候間、御慈悲と思召願之通被為仰付被下置候得ハ、難有可奉存候 以上
    寛延三年午二月                       山口村庄屋願主 平左衛門
                                   同 庄屋   半三郎
       御奉行所                        組頭     四人
 右によると、寛保元年(一七四一)福島奉行所から一〇ヵ年賦無利子で一〇両拝借し、家屋修理は出来たが下男を雇い耕作させるまでには至らず、五年間田畑は小作人に頼み居宅に入れて、自分達は裏屋に移り住むことで耕作のめどはついたから、庄屋の役目は今まで通りに勤めさせていただきたいと願い出た。
 このようにして家屋の修繕は出来たが、前々からの借金・借米が多くあり、宝暦四年に至り借金の利子、借米の利米が払えないまま嵩み、遂に破産に追い込まれた。一方村方も困窮に陥入り、平左衛門に助力して庄屋役を勤めさせる方法もなかった。そこで村方では平左衛門の預り林「万場松林」を、村方に払い下げをうけ、薪等に伐り村内で売払いその金で借金・借米を返済して庄屋役が勤まるようにしたいとし、林跡地二町歩程は畑にして検地をうけ年貢上納をするから願のとおり許可願いたいと左の願書を提出した。
 一山口村庄屋平左衛門儀、前々より借金借米多御座候而家居等破損仕候得共、繕い之手便も難成、去る寛保元辰年御拝借金二十両無利十ヶ年賦御願申上候処ニ御金十両被為仰付、繕ひ普請等仕難有奉存候得共、近年米穀下直(ね)ニ付、利金・利米等も相済不申候故、大借ニ罷成、当時ニ至り潰ニ罷成候得共、村方御百姓も至極困窮仕、平左衛門取立、庄屋役相勤させ可申方便無御座候ニ付、御願申上候ハ平左衛門御預り置申候万場松林御救と思召、村方え被下置候ハハ、段々と不残薪等ニ伐取、村切ニ売払少々之金子ニも仕、借金・借米之利上ヶ等仕らせ、庄屋役相勤させ候様ニ仕度奉願上候
  右松木御救ニ被下置候ハ、林跡竪二町横一町程之内ニ畑切起し、幾々御見分請御年貢上納可仕候間、御願申上候通ニ、松木被下置候ハ難有奉存候
  右之通御願申上候問、被為聞召分、宜敷被仰付被下候ハゝ難有仕合可奉存候 以上
     宝暦四年戍二月                       山口村庄屋 半三郎
                                      組頭 四人
                                    惣御百姓代二人
  右之通ニ御願申上候間御慈悲と被為思召上、宜敷被為仰付被下置候ハ難有可奉存候 以上
                                    庄屋 平左衛門
 このように庄屋家の経済が破綻に追い込まれたことは、庄屋の職務に原因しているように思われる。このようなことで中期以降には庄屋の交替がみられるが、世襲制では「庄屋の地」としての意識が村民の間にあり、その擁立に努力を傾けたと思える。庄屋給が支給されるようになっても、庄屋家の経済逼迫は改善されなかった。時代が降るにつれてその度は増し、この後も村民との間で種々論争を起している。