関が原役後山口村肝煎に牧野袮右衛門が任命された。万治元年(一六五八)に楯家惣左衛門が任命されて二人となり、以降牧野家と楯家が世襲で相庄屋制をとり明治に及んだ。牧野家は五代半三郎から外垣姓に改めているが、改姓の理由は不明である。
文政四年長左衛門一件に、両庄屋とも不取締の責任を問われて罷免されるという事件があった。一件は、長左衛門が金五拾両村から預っていたが、福島役所の役人から再三強要されて融資したのが、焦げ付となり村方との紛争を生じ、村方から福島役所に訴訟した。両庄屋は不取締の責任を問われて庄屋役を罷免された。後役が決まるまで馬籠村庄屋島崎吉左衛門が兼帯庄屋となった。庄屋後役は入札によって選出するよう命ぜられたが、ほかに庄屋役を勤める者が一人もなく困惑した村方では、楯兵左衛門の養子安太郎は若年であるが庄屋に立て、兵左衛門を後見人に任命されるよう嘆願書を提出した。
乍恐奉願上口上覚
一当村御百姓一統奉願上候ハ、長左衛門不埒ニ付、庄屋三左衛門、兵左衛門右一件取計イ不都合ニ付、先達而庄屋役儀被為召上御糺被仰付、庄屋跡役之儀ハ村方ニ而入札と相定メ御願申上候様被仰付奉畏リ候、村方一統申合仕候処、小前御百姓之内庄屋役義相勤リ候者壱人も無御座、殊更当村之義ハ、木曽村々御山内より御伐出御材木御川狩り等外村と違ひ至而多用之場所、猊又濃州三ヵ村模寄ニ而御七里其外御用取次仕、年々御用多之村方御存知之通両庄屋共、先年より相勤来り候得ハ、只今ニ相成庄屋共御用不相勤候而ハ、御用筋取扱い勿論村方締リ等も不行届、一統当惑至極仕候、依之恐多御願ニハ御座候得共、先庄屋兵左衛門養子安太郎と申者、当年拾五歳ニ相成申候間、何卒御憐愍を以此者え庄屋役義被為 仰付被下置候様奉願上候、且又是迄両人ニ而相勤候而も御用多之節ハ手張り申候処、いまだ年若成安太郎義ニ御座候得ハ、重々恐入候得共親兵左衛門之後見役被仰付被下置候様奉願上候
右兵左衛門之後見役之義、長左衛門一件ニ付御糺被 仰付間も無之、右躰御願奉申上候段誠ニ恐多、村方ニ而も数日寄合相談仕、隣村役人等も相願色々相談仕候得共、外ニ相勤へく者一切無御座、無據恐多も顧奉願上候、何卒御憐愍之御慈悲を以被為 仰付被下置候様奉願上候
右奉願上候通被為 仰付被下置候ハゝ重々難有仕合ニ奉存以上 山口村兼役馬籠村庄屋 吉左衛門
文政五年午三月 山口村組頭 長六
御奉行所 仁左衛門
丈助
藤治郎
また一方隣村蘭村・田立村・湯舟沢村の三ヵ村の庄屋・組頭も、この大事を見かねて山口村を訪れて村民と協議を重ねた結果、先に兼役庄屋・村役人連名で提出した願書の副願書を提出した。これらの願書が聞届けられて、安太郎が庄屋に任命されたが、兵左衛門の後見は表向きには許可にならなかったようで、文書には安太郎の連署だけで後見人の署名は見当らない。一方外垣庄屋の方は嗣子がなかったから後役はなくそのままであった。
こうして庄屋は楯安太郎一人に据え置かれたが、若年ということもあり、御用勤も村内の統轄も十分にいかず、組頭の負担が増した。また馬籠宿役人も助郷や人足の調達に支障が生じ難儀することが多かった。一〇年後の文政一三年(天保元年)馬籠宿役人は村民の要望により二人の庄屋の必要を認め、外垣三左衛門の復職を願い出ることにした。しかし三左衛門は罷免になった者であるから、お上で許可にならないときには忰鉄次郎は幼年であるが、これを任命されるように願い出た。鉄次郎は当時三歳であったから、三左衛門の復職を期しての願いであったと思う。願書は奉行所に遠慮して内願伺いとしている。
乍恐奉御窺内願口上覚
一山口村之儀先年より庄屋役両人ニ而相勤来候処、去ル文政五年庄屋三左衛門、同兵左衛門不調法ニ候儀御座候ニ付、役義御取上被 仰付、其後村中入札を以、則庄屋役安太郎え御願奉申上候処、願之通被仰付相勤罷在候得共、未タ若年ニ付兎角村方納り方も行届兼候仕合故、組頭共始小前一統迷惑仕候様子粗相(あらまし)聞承知仕、誠ニ以気之毒ニ奉存候、今般組頭共始一統不締ニ付相勤兼候趣被申候、依之恐多御願ニハ御座候得共、三左衛門之帰役御免被為 仰付被下置候様御願申上度奉存候、乍併一且不調法故、役義御取上之三左衛門如何御差支之義も有之訳御座候ハゝ、同人忰鉄次郎幼年ニ御座候得共、此者え被 仰付被下置候共、右両様之儀御内慮御窺被下候様、組頭共始村中一統納得之上、私共え御頼候ニ付奉恐入候御窺ニハ奉存候得共、右両人之内え被為 仰付被下置候ハゝ、一村相続取締も付、一統納り方安堵仕候間、何卒厚御憐愍之御内慮御差図被成下置候様、偏ニ奉願上候以上
(天保元)
文政十三年寅十一月 馬籠村宿役人
御奉行所
天保三年三左衛門の復職が許され、この年から文書に二人の庄屋の連名がみえるようになった。
①庄屋外垣家 嘉永七年(一八五四)一〇月外垣範助が福島役所に提出した由緒書によると、先祖は美濃国斉藤義龍に仕え田口玄蕃と申す者で、永禄一〇年(一五五七)斉藤家没落後、木曽山口村に居住、忰牧野袮平次天正一二年木曽義昌に仕え玉唱山の将となったが病身となり、また山口村に住し、その子孫右衛門が慶長五年肝煎役に任命されたと記している。これを現存する資料に照合すると、次のとおりである。
(表)
先祖田口玄蕃のことは文献はなく定かでないが、二区に田口平の地名があり、野下瀬に室町末期のものと思われる五輪塔一基がある。田口玄蕃に関係するものではないかと思われる。
二代牧野弥平次、三代牧野弥右衛門の名は、慶長一六年諏訪神社の棟札にあり願主である。札面の名の書順からみると、下代官松井善右衛門の次で同列であるから肝煎とみえ、二代弥平治はその下段であるから隠居の身であることがわかる。次の庄屋二代目六兵衛からは「山口村庄屋」と肩書がついて、神社札、文書に記載があるから問題はない。