馬籠村庄屋

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木曽の庄屋は、木曽氏の遺臣で村々に定着した者のうちから、由緒ある家柄の者が任命されたことは前項に述べたとおりである。馬籠村の庄屋島崎氏もその一人である。島崎家の祖監物重通は、木曽義昌に仕え馬籠砦の主将であったという。監物の子庄三郎重長は、豊臣秀吉の時世文禄二年に馬籠村下代官を勤めたという(島崎家譜島崎正樹編)。江戸時代には山村家が村々に私設代官を任じている。『県史史料編巻六木曽』所収の「[自元和四年至享保九年]谷中宿村代官名前書」によると、馬籠代官は庄三郎・七郎右衛門・藤兵衛・弥右衛門・彦兵衛とあり、元禄一六年(一七〇三)に、萩原代官末木九太夫に交代している。右の人は島崎家累代の人であり島崎家譜と一致している。元禄一六年に末木九太夫に交代しているのは、彦兵衛の嗣子藤兵衛知通が元禄一〇年に没し、長女に養子右門七郎を迎え、同一四年に彦兵衛没し、右門七郎が家督を継いだが、二年後の同一六年に右門七郎は没し、その嗣子仙十郎(後に吉左衛門勝房)一一歳にして幼年のため、下代官を勤めることが出来ず末木に交代した。一方庄屋は世襲制であったから幼年でも家督を継ぎ、庄屋は後見役を置くことによって庄屋は任命されたのである。この事情は次の文書によってわかる。宝永六年二月付「谷中御免木緩和願」(県史史料編巻六所収)の村々庄屋の連署中に「馬籠村庄屋・問屋九郎兵衛」と記してある。庄屋は問屋兼職していたから、確める資料は見当らないが問屋原九郎兵衛と思われる。一方島崎家系譜の吉左衛門勝房に「宝永六年九月二五日名古屋城御能拝見」の書入れがある。宝永六年には仙十郎が一七歳になっているから、元服し吉左衛門勝房と改め、庄屋職で名古屋城お能拝見に招待されたと思われる。この後勝房の長子・次男が早世し、三男彦兵衛勝周が寛保三年に二一歳で家督したが、この際にも白木忠左衛門が後見役になっている。馬籠村庄屋は島崎家が世襲して明治五年に及んだ。最後の庄屋吉左衛門重寛は庄屋廃止の後は「正樹」と改め、戸長を勤めた。馬籠村庄屋歴代は次のとおりである。
(表)