組頭

504 ~ 506 / 667ページ
庄屋の下に補佐役として組頭がおかれていた。組頭は「与頭」とも書く。これは「與」からきている。江戸初期の村あて文書は「肝煎・惣百姓中」また「肝煎」と単独で、組頭が記していない。また村から奉行所あての文書は肝煎単独で組頭は記していない。そして後には肝煎が庄屋と名を換え、庄屋のほかに組頭・年寄・長百姓と呼ばれる第二の村役人がおかれるようになったが、尾張藩領では組頭と呼ぶ。組頭がおかれたのは、幕藩行政が充実し村営上行政事務が増大し続けて、庄屋だけでは手がまわりかねるようになったということからである。庄屋の日常的な実務を手分けして受け持つこともあった。主な役割は村役人寄合に参加して村の意志決定をおこない、村の公式文書に連署して連帯責任を負うことにあった。
 この地域の尾張藩領の村で公文書に庄屋・組頭の連署の初見は、裏木曽三ヵ村では慶安二年(一六四九)の新田検地帳で定員四名になっている。木曽の文書では、岩郷村明暦三年(一六五七)白木取締請書に、庄屋・組頭四名、同村寛文一〇年二月の宗門取締請書、同年萩原村の定勝寺差出文書に組頭が連署している。これら木曽の文書には組頭一〇数名が連署している。山口村享保一七年の庄屋助役願にも一三名連署になっている。木曽以外の尾張藩領では定員四名が普通であるが、木曽の村では組頭がこのように多人数である。これは村内で構成している組の組頭全員が、村役人として村政に参与していたからである。これは、組ごとの草分の人達が中世以来有力農民として組支配をしてきたことに起因しており、利害関係の競合から全員が参加しなくては治りがつかなかったことによると思われる。
 また組頭の任期は、初期には年限の定がなく永年とも思われるふしがあるが、元禄年代ころから任期一〇年になり、後には四年が普通になってくる。
 山口村では一三組の組頭が、四人ずつ年番で勤め、外垣・楯両庄屋に二人ずつ付属していた。延享三年(一七四六)村方困窮となり、年番で勤めることが困難になったとして、一三組の組頭を廃し村内から適任者四名を選んで任命することにした。一三年後の宝暦八年に、庄屋会所の実務はこれで差支えないが、一三組頭がなくては村方の用事に差支えるとして、前々のとおり一三組頭を立て、四人ずつ年番制に復したいと奉行所に左の願書を提出した。
 
 一山口村組頭之儀延享三寅年迄拾三人御座候而、内四人宛年番ニ而御用等相勤来リ候処、同年村方困窮御願等仕候ニ付御吟味之上、右拾三人御潰御百姓之内ニ而四人組頭役被仰付、只今迄相勤来リ候処、御用等ハ間合候得共、村方用事等間合不申候故、此度御願申上候ハ先年之通拾三人ニ而相勤、内四人宛年番ニ御用等相勤候様ニ被仰付被下置候ハゝ難有奉存候、則右拾三人組頭名并当時より相勤候者共、別紙書付ニ而指上申候間、御願之通被仰付被下置候ハゝ難有奉存候
  右之通御願申上候間宜敷被為仰付被下置候ハゝ難有可奉存候以上
    宝暦八年寅六月                        山口村庄屋両人
           御奉行所                       組頭四人
                          拾三人組頭之覚     与助
                                      長右衛門
                                      源十
                        当時より来卯二月迄相勤申候 治郎右衛門
                                      惣兵衛
                                      孫次郎
                                      傅十
                                      又吉
                               右同断    久助
                                      庄三
                               右同断    源右衛門
                               右同断    曽助
                                      弥七
                右之通御座候 以上
 
右願書のとおり、同年六月二九日次のとおり許可になった。
 
  以手紙申入候、其村組頭之儀十三年以前寅年より四人ニ而相勤候処、村用間合不申候間寅年以前之通拾三人ニ而年番ニ相勤度願之儀、願之通拾三人ニ相極メ当時よリ年番ニ四人宛相勤させ候様可申渡候
    宝暦八年寅六月廿九日
 
 これによって宝暦八年から、延享三年以前の姿に復し、一三組の組頭中から四人ずつ年番で勤めることになった。組頭に給与はなかったが、庄屋引高と同じように年貢高に掛る課役など村方で負担していた。