本百姓中より才幹のある者が選ばれ、年貢の小割・村入用の小割などに立会った。庄屋・組頭の村政運営を監視する役目を持ち、一般農民の発言権増大とともに登場した。村では「百姓惣代」、宿では宿惣代といった。公文書に庄屋・組頭・百姓惣代と連署し連帯責任を負った。無給が原則であった。定員は二名が普通であった。
百姓代のおかれた年代は判然としないが、一般的には享保以後といわれている。木曽の文書に百姓代が見えるのは、寛保四年(一七四四)二月御巣鷹下し褒美改蘭村請書、寛延三年(一七五〇)山口村組頭改定書に百姓惣代二名の連署がみえる。
山口村庄屋・組頭・百姓代連署