定使

507 ~ 509 / 667ページ
中世には荘園における下級荘官として荘園の預所に属し、領家と現地の荘官との間の連絡や年貢の徴収などに当り定使給という給田が与えられていた。江戸時代では常使とも書き、定夫・あるきなどともいう。庄屋宅に一名が詰め、奉行所から回付されてくる触書や回状を次村に持送りしたり、村民に触・寄合・人足・夫役など伝達する役で、村役人ではない。村方より定使給が与えられるのが普通であった。定使は村民の中から庄屋が適任者を任命するのが普通であったが、定使給が与えられることもあって村民の希望者が多く、庄屋がその中から選考して雇入れするようになった。山口村では外垣庄屋と楯庄屋宅に一人ずつおかれ、村内の希望者の中から選考して雇入をしていた。
 宝暦八年二月山口村惣百姓中より庄屋にあてた「村方困窮ニ付願上奉リ候口上書」と題する要望書のうち、定使給に関する次の一条がある。
 
 一定使之儀毎年村方より頼遣候処、二人之給米前年度ハ八俵から拾俵程、只今ハ拾四俵弐斗程入申候、近年ハ少々人名も書候者頼み遣候様こと申され候ニ付、給米なども段々と上り、定使極メの節、年により四五拾人より百人程迄も掛り百姓難儀ニ存奉候
 
 これによると定使の給米は、以前は二人分で八俵から一〇俵程であったが、現在では一四俵二斗程になった。山口村では一俵は三斗八升入りであるから、一人分一石九斗が二石六斗八升になったことになる。そして近年は自分の名前位書ける者ということで給米もだんだん上り、雇入れ時には村内の希望者が四、五〇人から一〇〇人程にもなり、選考が大変であるといっている。
 また寛政四年の春には、田植と秋の取り入れ時には休暇にして欲しいと惣百姓中から申し入れがあり、止む得ないとして休暇を与えることにした。同年の外垣庄屋留書に「定使札入披見いたし、原の与作と野中の半次に極め申し候」とあるから、定使の希望者が多数で選考に困り、入札によって決定していることがわかる。
 同一〇年一二月に、定使給米二人分一三俵(一人分二石四斗七升)に改定した。
 馬籠村の定使給については、文化一四年の大黒屋大脇寿助記「宿村規矩細記録」中に、左のとおり記している。
 
        定使定之事
 一定使  壱人
   この勤方給分
  御米 壱石  旦那様より下され置候
  金子 壱両  両問屋より出し置申すべく筈
    内弐分ハ永代前金ニ出し申すべく筈
     弐分ハ春中ニ出し申すべく筈
 右の通り相定申候処如件
   元禄十年(一六九七)丑十二月                原三右衛門
                                嶋崎彦兵衛
    馬籠村中
 右の証文蜂谷源右衛門方ニ先年預り有之候処、文政二年(一八一九)卯十一月我等方え預り申候、則当年迄百二十三年ニ相成申候
 
 右によると馬籠村の定使は一名で、元禄一〇年(一六九七)に定使給が定まり、米一石を大旦那様(山村代官)より支給され、金子一両を両問屋より支給された。