江戸時代村の治安・行政の末端組織として、五人組が編成されていた。五人組は隣接する五戸を基準に組編成をしているが、家並や地形の都合によって八~九戸に及ぶ組もあり、必ずしも五戸に限ってはいない。組員のうちから一名の長を選び、五人組長とした。組の呼称は長の名前を冠して○○某組と呼び、組員は○○某組の○○とか、○○某帳下○○と記している。年貢納入・治安維持・相互扶助・相互監察等、連帯責任の単位とした。
五人組の制度は、古代の五保制に発するともいわれるが、江戸幕府の五人組の始まりは、慶長二年(一五九七)三月豊臣秀吉の「御掟」とされている。治安維持のための相互監察として侍は五人、下人は十人組を編成させた。江戸幕府は慶長八年、京都において町人の間に十人組を作らせた。その後幕府が五人組制度を領内に施行させた時期は定かでないといわれるが、「寛永三年寅御巣鷹保護の定」の第二の附たりに「五人組は籠舎たるへき事」とある。(徳川禁令考一五七〇号)同一〇年八月一三日の「公事裁許定第一」に、「存命の内五人組之相断り」とみえる。五人組制度が全国規模で幕領・譜代大名領に実施されたのは、寛永一〇年(一六三三)代とされる。同一八年五月二七日付、尾張藩国奉行より王滝村にあてた触書「定」に、キリシタン禁制相互監察、百姓の欠藩者防止を庄屋・組頭・十人組の責任とし、手落があったときには籠舎・過料に処すると規定している。このように寛永一〇年代には十人組が全国規模で実施された。また裏木曽三ヵ村では明暦二年、山林取締法度に十人組が請書を提出している。江戸初期には十人組編成であったことがわかる。
王滝村誌所収の「滝神宮当社留」に、寛文七年の宗門取締法度「未の二四か条」があり、この通達文に「此外も右の者共、所の百姓と五人組合仕り云々」とあり、村への新入者は五人組合に編入するように達している。同八年五日の「申の五か条」にも「五人組のうちキリシタンにこれあり、脇より顕われ候は云々」と、五人組を呼称している。以降の文書はいずれも五人組を呼称している。
十人組から五人組編成になったのはいつか、このことがわかる次の文書がある。『濃飛両国通史上巻』に、尾張藩領美濃武儀郡上有知村役人書留中に「尾張藩古義」よりとして次の記事がある。「寛永十九年、承応二年御国奉行御法度書に十人組とこれあり、寛文元年七月面々知行百姓・町人五人組を定め、庄屋・町年寄油断なくキリシタンの儀相改め候様仰せ渡さる」とみえる。この記事と前掲の王滝村文書の両方からみると、十人組から五人組になったのは、寛文元年(一六六一)であることが知れる。