この帳は農民の守るべき事項を記した前書とこれを遵守すべきことを誓約した組合員の連署・連判からなっている。五人組帳の前書は藩によって違いがあり、「地方凡例」には五三条が掲げられている。尾張藩は天明三年(一七八三)、毎年の宗門改帳の奥書に五人組が連署連判するので、五人組合は宗門改帳のためにあると勘違いしている者があり、五人組合の根本精神が忘れられているとして次の通牒を発し、五人組仕置帳を徴した。
天明三年九月廿五日太田代官井田忠右衛門の触書
五人組之儀、古来より御定これあり、村〆りの根本に候処、宗門帳についての五人組合と存違の村役人もこれあり候に付、小百姓共の儀は猶更五人組合〆りの儀、存ぜず様相成り候、依って以来心得違これなき様、左の趣庄屋・組頭ならびに組合の者共、相心得申すべく候、小百姓共庄屋・組頭より入念心得違これなく様申含、五人組合の家々近隣にていたし申すべく候、
五人組合の者は常に親しく融和を図ること、法度に背した者が出たときは組合全員の落度とするとして、その連帯責任を負わせている。法度の請書・質地証文・田畑の境の立合いや紛争の和解の立合など、村政や日常生活の上に重要な役割をもつようになった。村民の日常生活の中に深いかかわり合いを持っていた五人組が、木曽谷中の村々の文書に、全くといっていい程見当らないのは意外に思える。木曽の村々の町村誌の中にも記事が見当らない。寛永以来尾張藩の通達文書のなかには、宗門取締に条項のほか、飢饉時の相互扶助を五人組に要求している。しかし村々の庄屋文書の中には「五人組」の呼称が出てくるのはほんのわずかで、目についたものに次のものがある。
湯舟沢島田庄屋宗門改帳の末尾に、「庄屋・組頭・五人組」と記してあるが、連署・請印が省略されているので実態は知ることが出来ない。
次に馬籠村「大黒屋日記拾壱番」嘉永二年六月一二日の条に山口村と山論記事があり、「山口村の百姓三〇〇人余が入会場所を始め控内まで入り込み草刈り取りし利不尽に付、五人組始めその外百姓を五、六人も差し遣し」とある。そしてその翌日一四日の条に「山口村草刈に一条に付、組頭弥八郎・五兵衛・宗右衛門、五人組孫助・久作山口村へ掛合いに罷り出る」とみえる。この記事によると馬籠村には五人組編成がされていたことがわかる。また「同日記拾七番」安政二年七月二六日の条に「山口村馬道の一件、五人組の者共相談納得の上、干草山刈り中与吉小屋馬道貸し遣候筈に相談す」とみえる。この様子からも五人組が村政の一端にかかわり合い参与していることがわかる。一方山口村の文書には五人組の呼称は一度も見当らないが、「十三組」の呼称が出てくる。十三組は部落を単位しており、「あそう組」「南野組」などと呼んでいる。またそのときどきの組頭名をもって、「仁左衛門組(八重島組)」などと呼称している。