検地は年貢徴収のための土地基本調査で古来から行われているが、豊臣秀吉が全国的に行った太閤検地によって、これまでの荘園制的支配体制を清算し、新しい租制体系と農村の支配体制を確立した。これによって中世以来の貫高等による土地表示は消えて、石高で表示されるようになった。
秀吉の行った検地は天正の石直しともいわれ、天正一〇年(一五八二)の近江検地からは、三六〇歩一段の旧法を改め、六尺三寸を一間とする三〇〇歩一段の制をとって、町・段・畝・歩の定量単位を採用した。
村を単位に行い、村と村との境界を明らかにする村切牓示(ほうじ)を立てて村切を行った。
村内の土地については、地目を田・畑・屋敷の三種とし、それぞれの土地を一筆ごとに丈量して面積を求め、土地の肥背により地位(等級)を上・中・下・下々とし、京枡を用いて石盛(一段歩の収量)の法をもって、玄米の量を査定し、その基準高を石高で確定した。土地の場所(小字)、作人を調べて貢納責任者を決めた。一筆ごとの土地面積に石盛を乗じたものを分米といい、これを合計すると村の総高が出る。これを村高という。