関が原役後木曽は徳川家康の直轄地となり、元和元年八月尾張藩主徳川義直に加増されたが、木曽は元来無高の地とされ、村高が結ばれていなかったから、尾張藩領高の外におかれて、尾張藩領高の増加になっていない。正保・元禄・天保度の幕府の国絵図作成時に調製された郷帳(県史史料編第九巻所収)に、木曽の村はすべて村高でなく年貢高が記載されている。延享三年調の尾張藩領高の末尾に「此外に木曽領高の外千六百八十二石五斗五合」と取米高が記されている。このように取米高が定められているのに、村高が結ばれず無高の地とされていたことについてみてみたい。
関が原役後の翌慶長六年二月、家康から山村・千村氏に宛行された領地通知状の末尾に「六千二百石は木曽の替地に相渡申所也」と木曽の高が記されている。この高は木曽の領知高即ち村高であるとみるほかない。また木曽代官山村甚兵衛が、家康の駿府勘定所へ提出した慶長七年の年貢勘定書の冒頭に「一高千六百八拾九石五斗九升五合木曽谷中」と記されている。これは年貢高である。この年貢高の根元は、無高の土地柄であっても、農地があって年貢を納めている限り、その年貢は実際の田畑に課せられたとみるべきで、即ち検地により査定されたとみるよりほか考えようがない。このことについて「近世林業史の研究」の著者所三男氏は、その木曽の項で「村々に年貢納高が決められている限り、その納高の根元に当る村高が全くなかったとは、常識的にも考えられないことである」と前掲に述べた取米高は太閤検地に基くものであったと、次の文献を掲げて説明している。
その一つは、尾張藩の碩学松平君山の著書「吉蘇志畧」の中に、野尻宿野尻右馬助の条に「文禄元年太閤検地石河備前守光吉為シ二木曽県令ト一、以来貢賦文書悉蔵ス二干一家ニ一」と記していることである。著者君山が木曽巡歴した宝暦六年(一七五六)当時の野尻家には、木曽の太閤検地帳なるものが、実在していたとみられるが、右の検地帳に村単位の石高が記載されていたかどうか知る由もない。
その二は慶長六年二月、家康が山村氏始め木曽衆に都合一万六二〇〇石の知行宛状を出しているが、その後文に「内六、二〇〇石余は、木曽の替りに相渡し申す所也」とあることである。この文面によると、木曽六、二〇〇石は前述の秀吉の文禄検地によって結ばれた木曽の総高に当る石高とみなくてはならない。以上の二点によって木曽の無高説は、一応否定されなくてはならないことになるのであるが、問題として残るのは石河検地の仕法であるとし、所三男氏は次のように考証している。
天正の末年から文禄年中にかけて行われた、信濃地方の検地について調べてみたことからすると、木曽の石河検地は、見取検地というべき大摑みな査定に止まったろうと思われ、秀吉の検地方式に従って検地した形跡が全く見られないことである。方式はそのいずれかであるにしても、木曽惣高を六二〇〇石と決定し、これに基づいて、一六〇〇石内外の年貢(免率約二七パーセント)を取り立てるようになったのは、秀吉時代であったことはまず動かない。その秀吉時代以前の取米高は不明であるが、米にして一二〇〇石内外と推定される。木曽義昌時代の年貢の大半は、それに見合う数の土居・榑になり替っていたものと想定される。