右のように木曽谷中村の年貢の大半は、役榑一五万二千挺・買榑一一万六一五八挺、土居四三五二駄を上納し、米納の村は湯舟沢・馬籠・山口・須原・福島村の五ヵ村のみで、ほかに奈良井・贄川村の二ヵ村は黄金納であった。
関が原役後幕府の駿府城・江戸城を始めとし、慶長一五年に着工した名古屋城、領地替えとなった諸大名の城造り、街作りによる復興材の需要は莫大な数量に上り、無尽蔵とみられていた木曽山も次第に荒廃の一途をたどった。寛文四年尾張藩は木曽山の巡見を行い、調査の結果これまで山村氏に委任していた木曽山林と運材の管理を、藩直轄とし、上松に材木奉行・錦織に川並奉行をおいて林政改革に着手した。しかし木材の需要は衰えをみせず、藩財政の面からもその施業は徹底したものにならず、山林荒廃は深刻の度を増し宝永ころには尽山の様相を呈するようになった。木曽の木年貢も尽山になるに従い採材山を制限し、土居・榑の規格を縮め、立木よりの採材を禁止し、売木採取後の末木や、根木・枯木から採取するように規制が加えられてきた。こうした山林状況のなかで、榑木二六万八一五八丁、土居四三五二駄に上る莫大な採取は次第に困難になり、享保年度に至り雑木からの採材も許され規格も縮少されたが、本榑に対する替丁数は二倍から数倍にも達し、その採取労力は増加して村民を苦しめた。木種が尽き採取不能の村では、外から買榑して納入しなければならなかった。
また一方取扱者である山村氏においても、その輸送上の障害は大きな負担になっていた。榑・土居は主として川狩輸送をしたので、その失木障害も夥しいもので、慶長五年から元和八年までの流失木は、榑七八万丁、土居一万二千余駄に達していた。寛永二~三年にこの失木に対して榑五五万丁、土居四千駄を償ったが、なお榑二三万余丁、土居八千余駄の仕出しに窮したことが留書にみえる。木年貢の上納は村民を苦しめるようになっていた。
享保六年八月尾張藩は、大村源兵衛以下木曽山・裏木曽山に派遣して調査を行い、山林育成のため林政改革に着手した。これが第二次享保の林政改革である。この一環として木年貢が停止された。