享保の検地実施さる

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享保九年三月五日、尾張藩御用人から山村家用人桑原佐右衛門を召され、成瀬織部・遠山彦右衛門列席の上、木曽宿村の様子、田畑検地に入りくわしく相改めることになったと指令書が渡された。この覚書は、岩郷村庄屋控のものが、県史史料編巻六に収録されている。その内容を要略すると次のようである。
  ①見分のため大村源兵衛以下七名の検地役人を近日中に派遣する。②検地役人に対して所々の掃除、接待は無用である。③人馬の差出しは証文とおりとし、その余は相対賃銭を受け取ること。④役人に対する贈物は禁止する。⑤役人の宿泊費用はその所の相場にて受取ること。
 右の指令をうけて山村役所は三月七日、谷中宿村の庄屋・問屋・年寄を召集して指令を伝達し、なお詳しく万端違背のないように諭してその心構を促した。山村役所から宿村への申渡書は次のとおりである。
      谷中江申渡覚
一今度木曽宿並之様子并田畑検地をも入、委相改候様ニと被仰出之、近日御役人中被遣之候、村々百姓共右之趣奉承知、被仰出之通可奉畏候、尤百姓共無異儀筈ニ者候へ共、万一心得違古来無之事ニ候得者、御訴訟申上度などと猥成儀申出候ニおゐてハ、急度曲事ニ可申付候、被仰出之通奉畏、役人中被相廻候節任差図委細ニ田畑致案内、毛頭紛舗義無之様ニ可仕候、并於宿並者御傳馬役人之儀被相尋候品ニ随、明白ニ埒相立候様ニ答可申達候、少しにても構非儀、申掠候仕形有之旨後日ニ相聞候ハゝ、僉儀ノ上急度可申付候
   三月                                    (県史史料編近世巻六所収)
また次の四条の書上げを早速提出するよう命じている。


 一去ル丑年(享保六)巡見之節、書出候御年貢上納高
 一毎年実ニ納リ候御年貢高
 一村々古来より引ケ来候免許地・流地・寺社領・井免・庄屋給・定使給米高并往還道代共ニ
 一村々前々より代官免高品々、右之通書もらし不用様ニ入念、一村切ニ早速書付指出し可申事
     三月
 右之通福島御屋鋪様より被仰出候控
(湯舟沢村島崎留帳)

 享保九年三月一五日、上松材木奉行手代若井貞右衛門から検地奉行一行は一七日朝六ツ時名古屋を発足、一九日に湯舟沢に到着の知らせがあった。一七日湯舟沢庄屋からこの旨を谷中の宿村に回文で知らせた。
 一九日八ツ時(午後二時)湯舟沢村に到着した一行は直に検地に着手した。馬籠宿庄屋問屋両人は湯舟沢村で出迎え、その夜宿所に伺って検地の実際についていろいろ教示をうけた。そしてこの様子と、上松奉行戸田八左衛門の検地指示書を宿村に連絡した。この文書は県史史料編巻六に収録されているから、原文のまま掲げると次のとおりである。
一筆致啓上候、検地 御奉行様方今十九日八ツ時湯舟沢江御着被成候ニ付、我等共境迄御迎ニ罷出申候、又々今晩吉左衛門、源左衛門御宿々へ御見舞申上候処ニ、被仰渡之儀田畑壱つ/\ニあさな(字名)・持主名書付仕、御見分前ニ指置申筈ニ而、帳面之義誰持分畑何枚・田何枚〆田数何枚、畑数何枚と書付、村中壱冊ニ致、地帳と申指上候様ニと被仰付候、外ニさをさし六人申付置候様ニと被仰候、今日八ツ時ゟゆぶ祢さ〓御打初、村方三つ一つ程相済申候、存知之外早行仕候、明晩何とそ馬籠へ御越可被成と被仰候、為御心得之如此ニ御座候、
     三月十九日               馬籠
      妻籠ゟ先々               問屋書判
           御問屋衆中様
検地に際し上松奉行戸田八左衛門が村役人に指示した心得書
  (あさな斗)  (畑主)
  畑壱まい印  誰
  (右同断)   (田主)
  田壱つ    誰
  右此判は庄屋之印判ニ而御座候
 一料理一汁一菜ニ而御座候
 一酒者一切出不申候
 一田畑御廻リ被成候前ニ、問屋・年寄・さを指ハ血判仕候
 一御案内組頭四人御頭様(奉行)へと付申候
 一硯箱・十露盤持弐人
 一へり取二、三枚新鋪(あたらしき)を持せ申候、是は御越之処ニて御休之所々ニ而入申候、其節村ゟ上茶せんじ上申候
 一上松伝馬入用壱ケ年分去卯之年分壱人ニ付候当リ
 一上松〆リ右同断
 一往還之右同断
 一井せぎ・道作右同断
 右之通御尋被遊候由ニ承申候
 今度見分一列田畑検地改候ニ付、村々田作其外仕付物
 検地ニ不抱、前々之時節之通種物蒔付、其外耕作無遠慮致候様に心得可申候、為其如此ニ候、尤承知村々令印判先々廻納所ゟ可指届者也
   三月廿二日         戸田八左衛門 印判
        谷中三二か村宛  右宿村[問屋 庄屋]中

検地の図(徳川幕府県治要略より)