検地後の措置

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検地終了後、これまでの種々の諸制度が廃止または改革された。
(一) 閏の四月二五日木曽の検地が終了した翌日、検地奉行から、村々の田畑を所有する百姓一人分の年貢上納高を書上げ差出すよう次の通達が出された。
 
  木曽谷中宿村田畑控候者、只今御年貢壱人前何程宛指上申儀に有之儀哉、其程細々致吟味、壱人当り之御年貢多少、夫々無之相違様ニ含、村切ニ書付、来月十日迄之内上松役所え可差出候、為其如此候以上
     閏四月廿五日        大村源兵衛以下八奉行連名
 
 右の調査を五月八日に上松奉行所に提出した。
(二) 岐蘇古今沿革誌「辰年検地之事」の条に、次の事件があったことが記されている。
  検地終了後の五月十一日尾州藩庁より、福島役所の山方宿並取扱者宮地七郎左衛門・千村庄左衛門・桑原六郎左衛門・松井十太夫に遠慮申し付られ、六月九日四人にそれぞれ番人を付けられ取締りされたとある。この四人は山村家の重臣達で、その理由は「不直の儀これあり」という許りにて格別のご吟味もなく仰せつけられたとし、尾張藩御国御用人遠山彦左衛門の意に副なかったことによりざんそをうけたと取り沙汰を掲げている。当時の状況からみると享保の林政改革の強行な推進者であった遠山彦左衛門が、焼畑の禁止など山林規制にかかる諸政策を命じたが、谷中百姓の利にならずとして推進しなかったことが、意に触れたのだろうとしている。(本章第五節林業の二の(四)享保の村政改革の項参照)
(三) 五月二三日には、木年貢の廃止により下用米の必要がなくなったので、村々の郷蔵に保管中の米穀および贄川・奈良井の地子金など悉皆上松奉行に引渡すように命じられた。
  其辺村々郷蔵ニ有之候年貢米并ニ雑穀共ニ原畑御役所え近日相渡筈候、依之我等儀右之立合ニ罷越候、日限等相定不申候得共為念得申入候恐惶謹言
     五月廿三日                   大脇弟右衛門
(四) 六月下旬寺社領地の由緒について取調べがあった。
(五) 七月中旬尾張から立毛奉行として、近藤甚三右衛門・安立与惣右衛門の両人が派遣され、上松奉行所の足軽二名が従って回村し、検地後の年貢高決定に資すべく立毛検査を行った。
(六) 山村代官の村々の下代官制度は廃止された(山口村の下代官はこれより先天和二年に廃止され、福島役所の勘定所扱になっていた)。
(七) これまでの出目米(本途年貢一石に付一斗四升)は廃止され、口米一石に三升が課されることになった。
(八) 椀飯は廃止され、本途年貢一本になった。
(九) 本陣・問屋・役家の除地は召上げられた。