豊臣秀吉が検地を行い、田畑の収穫を計り、土地の標準収穫を定めて石高で村高をあらわし、租税制度を米納年貢制を軸としたものに統一整理する基礎をつくった。領主の知行もこの石高によって行った。江戸幕府もこれを受継いで幕藩体制を確立した。
江戸時代の租法は、田畑に課する年貢を正税とした。これを本途物成といい、田畑以外の土地や農・工・商・漁業に課せられる雑税を小物成といった。これを普通に年貢という。江戸時代の年貢の概念について、「木曽の村方の研究」(徳川義親著)は次のように説明している。
本途物成・小物成は現今の租税とはその性質を異にするもので、藩の耕地・山野を耕作し採取している使用収益料と考えるべきである。百姓所持の田畑といっても、今日のように法律の所有・私有という観念とは違って、土地は領主のもので、この一部を専有して耕作させて貰っているという建前から出発している。藩の土地を借りて使用し収益しているから、その収益料として年貢を納めるものである。
耕地(屋敷地を含む)のうちには年貢を免除された除地がある。除地には郷蔵の敷地や高札場など公用地として収用されたものもあるが、戦功によって下賜された土地、領主より寺社に寄進された土地がある。除地を所持する者は、その土地の年貢も課役も勤めないのが原則であるが、その土地を貰ったものではなく、扶持を受ける代わりにその土地から上る収益を全部収納する権利を与えられたものである。だから自由に売買したり、質入したりすることは禁じられており、由緒を失えばその権利は喪失する。