年貢免状

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江戸時代領主の決定した一村の年貢を、村ごとに通知する文書である。免というのは、査定された収穫高が一〇〇石で年貢が三〇石であれば、残り七〇石は農民の所有に免するということである。この場合の年貢率は、免三つという。江戸時代は村が担税の単位団体であったから、年貢は村の責任で納入するのであって、村民は直接に藩に上納するのではない。木曽の村々は村高が結ばれておらず、三二ヵ村の年貢米を一括して、木曽の年貢として上納していたのである。即ち木曽全体を一つの行政区画として担税の単位団体としていた。従って普通の村では、庄屋が村を代表して納税責任者となっているが、木曽では代官山村家が納税責任者であるから、木曽の年貢免状は山村家あてに出された。山村家から村々に対して「覚書」で上納額を通知した。
 尾張藩領内では、このような一括支配は木曽と裏木曽三か村(付知・加子母・川上村)があった。裏木曽三ヵ村は木曽と同様本年貢を上納し、裏木曽山の一括支配に起因し三ヵ村代官の支配下にあったが、享保一四年木年貢廃止後は、村ごとに免状が出された。三ヵ村には村高があったが、木曽の村々にはなく三二ヵ村をひとまとめにして一地区とした行政は、尾張藩領中では他に例がない特異なことである。
 年貢免状は、毎年一一月中に村々に発せられた。年貢免状には冒頭に村高が記され、取米高・口米高が石高で記され、その次に除地引分やその他の免除引地分などすべて石高で記されているが、木曽の免状は石高記載ではなく、すべて反別が記載になって、一般の免状とは書式が異なっている。享保一三年の山口村年貢「覚書」を掲げると次のとおりである。
 
    覚
              信州筑摩郡
 一反数七拾五町壱反廿歩      山口村
  内
  壱畝拾三歩     御蔵敷地引
  下畑壱畝九歩    未年漆種蒔付場所ニ引
  下畑三畝拾歩    申年漆種蒔付場所ニ引
  田畑六町八反五畝拾四歩 検見引
  内
  田方六町三反八畝四歩
    上 四町壱反五畝歩
  内 中 壱町五反八畝廿九歩
    下 六反四畝五歩
  畑方四反七畝拾歩
    上 弍反壱畝拾歩
  内 中 弍反三畝歩
    下 三畝歩
 残反数六拾八町壱反九畝四歩
  田方四拾三町弍畝四歩
  畑方弍拾五町壱反七畝歩
 取米百九拾五石壱斗五升
 右は其村御年貢米午年より戌年迄五ヶ年定納ニ当申年分如此ニ候間、庄屋・組頭小百姓立合申分無之様ニ致割符来ル極月五日迄急度可令皆済者也
  享保十三年申十一月         川角彦右衛門
                    松本分左衛門
                    川口藤助
                    川勝八郎右衛門
                   右村庄屋
                      組頭中小百姓中
 右の「覚」は毎年出されたが、山口村ではこの一通が残っているだけである。馬籠村には残っていない。「覚」について説明をすると、最初に総反別のうちから年貢免除地として御蔵敷地と漆種蒔付畑が二筆ある。次に検見引として、田畑六町八反五畝一四歩が引かれている。これは享保一〇年から検見引となっている反別である。確かな理由はわからないが、災害による流失か、砂入り欠損により年貢が引かれていたものと思える。五ヵ年の定納になっているが、災害等の被害により減収が三割以上と認められた場合は、検見によって引免されることがあった。

享保13年山口村年貢「覚」(山口村宮下敬三氏蔵)