納物・椀飯(おうぱん)

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木曽では享保の検地まで米年貢・木年貢のほかに、村々から山村家・村々担当の下代官・庄屋・寺院へ、納物および椀飯として土地の産物を納めていた。「椀飯」と書くのが正しいが、埦飯・埦飯とも書く。木曽では「椀飯」が使われているから椀飯とする。意味は椀に盛った飯という意で、転じて供応のために設ける食膳、または人に供する意に用いられた。公家や武家の間に行われた。公家では歳首、吉事などに当り、宮中に参集した朝臣の何人かに課して、殿上をはじめ台盤所・武者所などで会衆に供応させた。武家も歳首・慶賀・遊覧の時などに家臣が主君を供応して主従関係をより緊密にした。鎌倉時代正月宿将から将軍に祝儀の品々を調進するのが、室町時代に形式化した。民間では人を供応することを「大盤ぶるまい」というが、これからおこった。納物も椀飯も庄園時代領家に納めていた遺風が、木曽では温存されていたのであろう。
 納物も椀飯も納める物には変りがない。木曽では納物はそのときどきに、椀飯は一二月末に山村家に納めることになっていた。そのほか下代官・庄屋・寺院にも納めていた。享保の検地の際、検地奉行に提出した村々の「御前高御年貢」の書上げ文書に福島への納物として、種々の品がみえる。その主なるものは、薪・炭・真綿・搗粟・かち栗・きじ鳥・黐(もち)・干草・葛葉・葺板・柿渋・松明・莚・布などがみえる。山口村の椀飯は検地の項で記したが、柿渋・かち栗であった。これは年貢以外のもので、農民の負担が大きいので検地後は廃止された。