郷倉(ごうぐら)

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郷蔵とも書く。江戸時代郷村に設置された公的な穀倉で、村から上納する年貢米穀は一旦郷蔵に収納された。中期以降は、藩の備荒貯蓄政策に従いおもに非常救済・貸付用の貯蓄蔵としても利用された。
 郷蔵は庄屋に管理責任が負わされていたから、庄屋宅に近い所に置かれていた。山口村の郷蔵は外垣庄屋宅の前にあった。郷蔵の敷地は一畝一三歩で除地になっていた。跡地は現在畑地(一三二六番地)である。郷蔵は寄棟茅葺きの土蔵造で桁行四間、梁間三間であった。この郷蔵に一時保管された年貢米の数量は次のようであった。
 山口村の年貢高は江戸初期には本途物成、口米合せて一〇四石五斗六升で、一俵三斗八升の俵詰にして二七五俵程を収納した。享保九年の検地後の年貢高は二〇〇余石になったが、大半は金納で納めたから蔵入りは宝暦年代には米上納は三〇石前後で、俵詰にして八〇余俵を収納した。収納米の大半は村の飯米に払下げられ、そのほかは岩郷村児野家の扶持米、蘭・妻籠・馬籠村の給付米に充てられた。
 外垣庄屋萬留帳に郷蔵屋根の葺き替の記事がある。
  寛政九年四月二日 郷蔵葺替に付、材料運搬人足拾六人、組頭清蔵宰領に出す。
        三日 郷蔵葺替に付、人足弍拾四人出、片側葺替に付、人足弍拾六人出、組頭儀平宰領、扱郷蔵かや不足に付御寺にて三拾壱〆借用致、大畑下にて八〆相調候て漸く四方の平(ひら)は葺仕舞候得共、いまだ棟かや不足候へば明日へ相延し申候
        五日 郷蔵葺替仕舞、掃除まで相済。
 江戸時代の山口村絵図(山口村村民センター展示)に、寄棟茅葺きの郷蔵が描かれている。郷蔵は村から上納した年貢米を、藩庫へ納入するまでの間保管するため設置されたが、村で建てられない所では、明家や庄屋の蔵を使用した所もあった。郷蔵の修繕などは村の費用で行われた。明治五年年貢米が廃止され、郷蔵は廃止になった。その後山口村では、明治一六年三月二〇日郷蔵を戸長役場に使用するという届書が西筑摩郡役所に提出されている。

山口村郷蔵、山口村絵図より

(山口村役場所蔵)
 馬籠村の郷蔵は検地の書上げに敷地六坪とあり、島崎庄屋家の宅地内にあった。その位置は現在藤村記念館の文庫の位置で、明治二八年馬籠宿大火の際焼失した。