木曽では古くから多様の升(ます)があり、村によって異なった升が使われていた。その種類は九種類に及んでいた。この様子を知るために升の歴史をみてみたい。
奈良時代には唐制の大升・小升が採用されたが、平安初期から各地に多様の升が使用され、延久年間(一〇六九―七三)に四寸八分平方深さ二寸四分、容量現行の約六合の宣旨升を制定し以後この升を公定升にしたが、平安時代より荘園の発達、中世戦国時代には群雄割拠により官升は行われず、各国・郡により勝手に私升を作り、同一荘園内でも収納に使う升と支払に使う升が異なり、極度に紊乱した。中世末には商品経済の発達などにつれ、次第に統合の機運を迎え、全国の最大市場である京都に商業升の一種として「京都十合升」が出現して、京都を中心として広く使用された。永禄一一年(一五六八)織田信長が京都に統一政権を擁立すると、これを公定升と決めた。
豊臣秀吉の太閤検地が諸国に実施され、石盛や年貢米の徴収は京升を使用したので、その使用圏は全国に拡大した。しかし、当時の京升の容積は必ずしも一定していなかった。このころ京都では福井作左衛門が京升座として、京升の製造販売に従事した。
天正一八年(一五九〇)江戸に入った徳川家康は、遠江の商人樽屋藤左衛門を江戸に招き、江戸升座に指定し京升の製造販売を命じた。この当時の京升の容量は、およそ六万二五〇〇立方分ほどであった。京都の京升はその後次第に容量を増し、寛永年間には六万四八二七立方分となった。江戸の京升が、京都の京升と容積上の格差があることは許されなかった。そこで幕府は寛文九年(一六六九)一二月、江戸の京升を京都の京升の容積に合せ、全国の諸大名に京升に統一するよう命じ、升の制度を確立した。全国を東三三ヵ国を江戸升座に、西三十三国・壱岐・対馬を京都升座に分掌させ、それぞれ同一規格の京升(新升という)の製造・販売の独占権を与えた。江戸時代の京升の種類は、一斗・七升・五升・一升・五合・二合五勺・一合の七種で、升の口辺に対向線状に鉄準(弦)を渡したので、これを弦掛升(つるかけます)と称した。これは穀用升でほかに液用升も作られた。
しかし大藩では、城下の商人を升座に指定し、これに製造・販売させたりしたところもあった。
明治政府は、明治八年京升を法定升とし独占的な京・江戸両升座を廃止、検定は政府が行い、製造・販売は民間に任せた。四〇〇年の歴史を持ち生活に密着した京升は、昭和三四年メートル法の実施によりその法的な生命は断った。