木曽には古来から村々の升があり、江戸初期には九種類の升が使われていた。山村家では京升を用いているから、これは文禄の検地後京升を官升として用いられるようになったとみられる。村村では従来の慣習によって、それぞれの村の升によって年貢米を納めた。山村家では年貢米の収受、扶持米・給付米の払は京升で勘定立をしたから、ここに山村家の払升、村々の納升の制度が出来た。
山口村の納升は、米一俵を三斗八升で納め、山村家では払升で四斗五升に勘定を立て収受した。馬籠村の納升は一俵三斗九升で、山村家では払升で四斗六升に勘定立して収受した。
木曽村々の九種類の納升と、山村家の払升との割合は、前頁第5表のとおりである。
(表)第5表 木曾の納升・払升の割合(木曽林政史 徳川義親著より)
上郷十四ヶ村 福島・三尾・黒沢・玉滝・末川・上田・原野・宮越・菅・藪原・奈川・奈良井・贄川
寛文九年一二月江戸幕府の京升統一の督励に応じて、尾張藩でもこれを受けて領内に京升の新升使用を命じた。寛文一一年正月「新升の使用について」という表題の山村家の回状が、王滝村誌に掲載されている。これは毎年一月に立つ福島の六催米市に使用する五升入新升に関するものであるが、木曽の升のいきさつが知れるから、読下しにして掲げると次のようになる。
一木曽谷中に御座候古升残らず御当地持参仕り新升に取替させ候様にと旧冬仰せ出され候に付、右の趣谷中へ申し付、村村所持仕り候京升相改申し候所に宿並十一か村に百余御座候、別升に取替え候にと申し付候
一木曽中の儀前前より京升の寸法をもって、五升入の升に仕り只今までは米売買仕り候、自今以後の儀も前前の通り五升入の升をもって売買仕り度と町人願奉る儀に御座候
子細は福島に一月に六催の米市立申し候、右の米は信州筋十五、六里の所より付、尤も福島町へ付込申し候迄に米の善悪見分致、悪敷米の分は直ぐ拵へ直し仕訳候、米の駄数多少見合せて売主と宿相対にて値段相定め、方方より集り申し候者共買申す事に御座候、一升升にては手間懸り、その日に仕舞兼申す者これあり候、その上関所御座候に付暮に及び往来不自由に御座候へば、人馬共に福島に一宿仕るべく候へば、そのかかり物は米の値段にかけ申すべく候、左候へば往往米の値段も高値に相成、谷中の者迷惑仕る迄存候、
一右五升入の升損候節は、前前より京升の寸法をもって甚兵衛方にて焼印はかり相渡致し用来申し候、此度の儀も新升の法をもって五升入に申し付、前前のとおり焼印いたし用させ申すべく候哉、御内談伺い申す儀に候、
右の書付、我等尾州に罷在候時に候哉、松井喜右衛門使にて二月十一日に申し入れ候へば、則御老中へ申達なされ候処、御耳に達せられ候へば、升の儀前前より木曽にて甚兵衛へ申し付候儀に候間、此度の儀も前々の通り入念、木曽にて五升新升申し付谷中へ相渡候様に京升の新升木曽へ遣候時分伝馬証文にて遣候様にと、旦又谷の古升尾州へ越候に及ばずと松井善右衛門を同月十三日呼ばれ申し候て、右の通り渡辺新左衛門申し渡候事
右の回状の冒頭に寛文九年の新升統一に基づき、尾張藩から谷中の古升を尾州表に持参して新升に取替を命ぜられ、谷中一一ヵ村の宿村の升を調査したところ百余個あり、これを取替えるよう申し付けたとある。商業用の升は一応新升に取替えられたように思える。
木曽の升の扱いについて次のように記されている。毎年一月福島の六催市に用いる五升入の新升が損じたときは前々より山村家が検査した焼印升を渡し用いてきたから、このたびも前々のとおり山村家の焼印升を渡し使用させるかどうか内々に伺いを立てた。このことについて山村家が扱う木曽の升のいきさつが述べられている。
山村甚兵衛が尾州表に在府のときに、御老中に申達いたしたところ、木曽の升のことは甚兵衛に申し付けてあるから前々のとおり計ってよいということである。木曽は辺ぴで名古屋に遠いから山村家に任せられていたようにみえる。このようにして木曽の商業用の升は、山村家の検印をした升が使用されていた。しかしそれより四三年後の正徳二年の山口村庄屋楯伝六の年貢米の記録には、一俵三斗八升入と記しているから村々では従来の納升を用いていたことがわかる。
享保九年の検地から木曽の升は新升に統一され、年貢米も新升で納めるようになった。山口村の当時の村文書が見当たらないのでその境は確かめられないが、宝暦七年以降の年貢免状の写しは、すべて一俵四斗入となっているから新升が使用されていたとみられる。
享和元年(一八〇一)五月二四日付山村家から黒川村より岩郷村まで七ヵ村あてに出された「升に関する」回状が王滝村誌に掲げられている。これによると木曽谷中通用の升は、寛文年中に定められ享保年中なおまた全村に用いるよう申し付けられたが、その後また乱れてきたようにみられるから今般改めたるところ、五升・一升升はお定めの升が使用されているが、小升は勝手に手指の升を用いているのが見受けられる。今般五合・一合升ともに柄付の酒醬油升ならびに平升を、福島八沢町庄七に改役所焼印を申し付けたから、商人共の無印の升は使用禁止し、これら無印の升は庄屋元に残らず取り上げ、庄七方証印の升に取替えるよう命じている。右の様子からみると、木曽の商業用升が公定升に統一確立するのは、享和元年のことである。