江戸初期の木曽の年貢

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木曽の年貢は、中世の木曽氏時代の制度が、豊臣時代の石川代官にも受け継がれ、家康の蔵入地時代にも踏襲されていた形跡がみられるといわれているが、木曽氏時代の年貢の内容は明らかでない。近世林業史の研究(所三男著)に「家康蔵入地時代の木曽の年貢」について述べられているから、これによって江戸初期の木曽の年貢をみると次のようである。
 
 山村氏が家康の命により駿府の勘定所に提出した慶長七年の木曽の年貢勘定書がある。
 一高千六百八拾九石五斗九升五合 木曽谷中
  内四百拾九石壱斗壱升壱合 寅ノ永流并山口村・との村永荒共ニ
  此取千五百七拾石四斗八升四合 御蔵へ納
 一米弍百七拾石ハ なら井村・にへ川村地子納
  但金六枚ノ分 壱枚ニ付四拾五石かへ
 一米弍拾三石ハ 木曽谷中毛付馬ノ代納
 一米拾壱石ハ 荻原村山手納
 一米弍石は  王滝村より納
  但熊皮弍枚の代
  (以下略)
 
 右が木曽谷中の年貢の書上げで、年貢の総高は一六八九石五斗九升五合で、そのうち災害による耕作不能地の年貢分一一九石一斗一升一合が引高となり、取米は一五七〇石四斗八升四合が上納となっている。この総高のおおかたは本年貢であったとみられる。そのほかに、地子金・毛付馬・山手納・熊皮などがある。このうち奈良井・贄川村の二七〇石は黄金六枚分の替りに納める地子納で、家並に課せられるものであって、一般の年貢とは本来の性質を異にする。これは奈良井・贄川村の両村のみに限られるもので、黄金六枚分の地子が代米(一枚分四五石替)二七〇石になっている(後慶長一八年の成箇郷帳では一枚五〇石替で三〇〇石になっている)。鳥居峠以北の松本口にある両村だけに地子金が温存されていたことは、中世ないし事後の宿場町(まち)的な成り立ちと、その要素をもっていたことを示すものであり、武田租法の遺制ともみられる向きがあるといわれている。
 次に荻曽村の一一石の山手納であるが、木曽谷中でこの村だけに山手が残っているのは、小物成としての山手ではなく、かつて山手を上納していたが林野が開けて農地となってからも、それに相当する年貢を山手の名目で上納していたものと思われると説明している。慶長一八年の御成箇郷帳には、荻曽村でなく藪原村納になっているのは、これは後に荻曽村から分立し藪原在郷となった部落だけが負担した貢租であったであろうとしている。
 王滝村納の熊皮二枚代の二石は、もと別村であった滝越からの納物を、滝越が王滝の支村になってから同村から上納するようになったものである。
 農地の少ない木曽では、それぞれ土地柄に応じた年貢納物が徴されていたことがうかがわれる。米納といっても水田が少ない木曽では、実際にはおもに雑穀で米に換算して上納された。雑穀の米一升に対する換算規定は、大豆一升五合、稗三升、粟二升五合などであった。米や雑穀は一旦各村の郷蔵に収納され、村々の役木(本年貢)に対する下用米として、役木の完納次第村方に還付されることになる。木曽の事実上の年貢は、米ではなく役木の土居・榑であった。