木曽の成箇郷帳

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慶長一八年五月山村代官は家康の命により、慶長六年以来の木曽の年貢を整理し、新たに村々の年貢米・年貢木の上納高を決定し、駿府の勘定所に提出した。これが「木曽村々御成箇郷帳」(県史料編巻六木曽所収)である。この郷帳に決定された木曽谷中村々の年貢高の合計は一六八二石五斗五合である。これが木曽の公表年貢高で江戸時代を通じて変わることがなかった。またこの帳は木曽村々の年貢高が揃ってわかる最初の帳である。帳の末尾には米納の代りに上納する役木の榑・土居・買榑の数量が決められ、その扶持米として下付される下用米の数量が次のように定められている。年貢高と扶持米の合計数量は一致している。
 
 米合一六八二石五斗五合 定納
  内
  米四五六石は        役榑一五万二〇〇〇梃 この扶持米一梃に三合ずつ
  米四四八石二斗五升六合は  役土居  四三五二駄 この扶持米一駄に一斗三合ずつ
  米七七八石二斗五升は    買榑一一万六一五八梃 この扶持米一梃に六合七勺ずつ
 
 正保四年(一六四七)幕府が調製した信濃国郷帳(県史料編纂一巻所収)にも、木曽の年貢高はこのように記載されている。慶長一八年五月の木曽の御成箇郷帳の村々の年貢高・役木数を、見やすいように算用数字にて一覧表にすると次のとおりである。
(表)第6表 慶長18年5月木曾村々御成箇郷帳
(註) 御帳の村々には米納高と役榑・役土居の数のみで買榑の数は示されていないが、木年貢が一覧出来るよう「木曽考続貂」によって記載した。買榑の数には過榑の数も含んでいる(備考欄参照)。
 御帳では年貢米と役木の下用米の数量が一致するようになっている。これは木曽全体としては年貢米高に相当する木年貢を上納することによって、木年貢の下用米と相殺されるようになっている。村々では決められた年貢木を山村代官に完納すれば、下用米が下付されてそれで済むことになる。山村代官はこの年貢木を藩庫に納入する処務が残っている。土居は駄送で馬籠まで陸送し、榑木は木曽から錦織湊まで川狩輸送し、錦織から白鳥の材木奉行所まで沖乗輸送をした。この費用は山村家の負担となるのである。また木曽から錦織湊までの川狩輸送には失木がありその補充をしなければならなかった。失木は年によって違いがあるが、「木曽勘定書」慶長七年から同一〇年によって榑木の失木数をみると左表のようになっている。四年間の平均値は三・四パーセントとなっている。
(表)第7表 川狩輸送による榑木の失木数
(木曽勘定書から)
これによって木曽の年貢木二六万八一五八梃の失木数を計算すると、平均九一〇〇余梃となる。従って毎年これだけ余分に村々から納めさせ補充しなければならなかった。そのため村々の割当数には補充の過木も見込んである。輸送費・過木の下用米は山村氏の負担であったから、それを補うため帳面とは別計算の二通りになっていた。これについて木曽考続貂に次のように記されている。
   御帳面の木数、及び下用米
 役榑一五万二〇〇〇梃 下用米一梃に米三合
   下用米合四五六石
 買榑一一万六一五八梃 同米六合七勺
  下用米合七七八石二斗五升
 土居四三五二駄 下用米一駄に米一斗三合
  下用米四四八石二斗五升五合
 米合一六八二石五斗五合
    実際の木数、及び下用米
 役榑一五万二〇〇〇梃 下用米一梃ニ米三合
  下用米合四五六石
 買榑一一万六一五八梃 下用米四合
  下用米合四六四石六斗三升二合
 土居四三五二駄 下用米一駄に九升
  下用米合三九一石六斗八升
 過榑木八三四二梃 下用米一梃に米四合
  下用米合三三石三斗六升八合
 過土居八八駄 下用米一駄に九升
  下用米合七石九斗二升
 榑合二七万六五〇〇梃
 土居合四四四〇駄
 米合一三五三石六斗(下用米の合計)
 右の別計算によると、年貢米一六八二石五斗五升から下用米一三五三石六斗を下付し、出米三二八石九斗五升となる。これは山村家の収入となる。しかし年貢高は年により豊凶があり一定でない。定納となっていても検見引によって減収となることもある。年貢木の土居・榑木はおおかたは川狩輸送によった。木曽川合渡から錦織までの川狩費用に八〇両程、錦織から白鳥まで桴(いかだ)乗費用二百五、六十両合せて三百二、三十両を要し、下用米の出米では不足した。また年貢木の川狩輸送上の障害は夥しいもので、その失木数は見込んではあるが、慶長五年から元和八年までの二二年間の流木失木数は、榑七八万余梃、土居一万二〇〇〇余駄であった。この失木を寛永二年三年に榑五五万梃、土居四〇〇〇駄を償ったが、なお残り榑二三万余梃、土居八〇〇〇駄の仕出に窮したことが、山村家の留書に記載されている。山村家では郷帳に決められた年貢木を正確に藩庫に納めているが、そのために大変な犠牲を払っている。