江戸時代初期後半ころになると、早くも藩財政の窮乏をきたすようになり、年貢の増徴が行われるようになった。大藩を誇る尾張藩もその例外ではなく、藩創設以来わずかに四〇年にして既に財政整理の必要に迫られたのである。正保元年(一六四四)藩は財政建直しのため概(なら)し高割を定め、翌二年二月一一日地租改正の実施をした。正保の四つ概という。これは木曽は例外とされ適用はうけなかったが、尾張藩の貢租を知るためにその概略を掲げることにする。
従来尾張藩の徴税率は、村々の村高の一〇分の六(免相六つ)で、六公四民が標準であった。しかし実際には村々によって免相は異なっていて一定ではなかった。これを統一して領内の免相を一律に四つに改めて、従来の六公四民を四公六民とした。これだけみれば免相が二つ減じたことになるから、百姓には利益のようにみられるが、実質的には増減がなく、その結果藩の実収入が増加しただけである。
四つ概の方法は、簡単にいうと従来の村高が一〇〇石であると、免相は六つ(六〇パーセント)であるから年貢米は六〇石となる。この六〇石の年貢収入を減らさないで、免相を四つにするには村高を延ばさなければならない。それには一〇〇石の村高を一五〇石に延して、免相を四つにすると年貢米は六〇石となる。このように従来の年貢米が、一〇分の四になるように変更したのである。元の村高一〇〇石を元高といい、一五〇石に延した高を概高という。これによって藩では、元高六五万三一九九石六斗一升が概高で八九万四四一九石六斗一升となり、元高より二四万一二一九石七斗五升の延となり、免相四つで取米は九万六四八七石八斗の増収となった。このとき木曽の村々の年貢も調査したが、木曽の村々には村高がなく年貢高しかなかったので、この適用はうけなかった。