山口村の年貢に関係する事項が文献の上に初めてみられるのは、慶長七年山村代官が家康の駿府の勘定所に提出した「木曽の年貢勘定書」(徳川林政史研所蔵)で、その冒頭に次のようにみえる。
一高千六百八拾九石五斗九升五合 木曽谷中
内百拾九石壱斗壱升壱合 寅ノ永流并山口村・との村ノ永流共ニ
此取千五百七拾石四斗八斗四合 御蔵へ納
右によると、その年の木曽全体の年貢高から、水害をうけて損耗した耕地分の年貢高を差引いて、残り分が御蔵へ納められたとあるが、山口村の年貢上納高や損耗分の面積・年貢の免除高数はわからない。木曽の村々の年貢高がわかるのは慶長一八年(一六一三)の「木曽村々御成箇郷帳」で、山口村九一石七斗二升八合、馬籠村四〇石と決められたことは前述したとおりである。山口村の年貢高が郷帳に決定された際に、さきにみた慶長七年の勘定書の永流地がどのように取扱われたであろうか。一旦帳簿に登記された耕地は、損耗の度合いにより三年あるいは五年・一〇年と復旧年限が査定され、年限内に復旧に努力することが義務付られ、その間の年貢米分は免除されるが、一旦登記された耕地面積が帳簿から削除されることはないのが普通であった。裏木曽の川上村にその例をみると、享保元年の洪水で一三名の持地が河原と化したが、毎日の生活があるので復旧はままならず、四四年後の宝暦一〇年に至って村中で助力してようやく復旧した。この間の年貢米は村中で分ち負担して上納した。この一件の詳細の記録が残されているが、江戸時代の年貢義務の厳しい一面がうかがわれる。こうした状況からみると、前掲の勘定書の永荒地も、年貢帳面に残されていたと思われるが、年々の年貢免状が見当たらないのでその間の経過を知ることは出来ない。
また郷帳の木曽中の年貢高一六八二石五斗五合は「定納」と記されている。王滝村の年貢免状(王滝村誌掲載)には、正保二年から五年、慶安二年から三年の定納とあるから、三年ないし五年の定納制であったことがわかる。
次に山口村の年貢のわかる記録は、郷帳より五四年後の寛文七年(一六六七)一二月、山口村・湯舟沢村担当の下代官松井善右衛門が、福島の勘定所に提出した寛文五年度の勘定書(県史史料編巻六木曽所収)にある。
寛文五年山口村・湯舟沢村、御年貢勘定帳
一米八拾八石九斗弍合 定納
米拾弍石四斗五升 右出米石ニ壱斗四升宛
小以百壱石三斗五升 払升也
右の勘定書の年貢高八八石九斗弍合は、御帳の年貢高九一石七斗八合より二石八斗二升六合少なくなっている。この減額の根拠は慶長以降の年貢免状が見当らないので確かなことはわからないが、木曽の村々の年貢文書に永流・永荒の記載がみられるから、郷帳以前からの永流地が残っておりその年貢分の減額ではないかと思われる。山口村の減額高二石八斗二升六合は、当時の年貢率からみると上田一町歩余の年貢に相当する。それより四四年後の宝永六年(一七〇九)の木曽谷中年貢書上帳には九四石四斗二升三合六夕三才六毛になって、五石五斗二升一合の増となっている。宝永六年に木曽の年貢が、改定されたようにみえる。その理由は定かではないが、一般的にみて寛文年代前後から元禄年代ころまでに分家が進み一段落しているから、これに伴う耕地の増加によるものと思われる。
享保九年検地に際し、検地奉行に提出した「山口村年貢帳」(楯庄屋萬留帳)に、次のように記されている。
御前高御年貢米(慶長一八年木曽郷帳に決められた高)
一 九拾壱石七斗弐升八合
前々より納り来候高ハ(宝永六年の高)
一 九拾四石四斗弍升三合六夕三才六毛
内四斗六升四合四夕四才ハ当村井免米ニ先観より年々被下置候