享保九年検地後の年貢高

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享保九年の検地によって、山口村の田畑・屋敷地の総反別は七六町一反一畆一七歩と打出された。田畑は六等級に分けられ、上・中・下・下々・野下・荒に格付された。検地後大検見・小検見が行われ、等級別にそれぞれの田畑の反当り年貢高が査定された。翌一〇年と一一年にも同様に反当り年貢高が査定された。検地が施行された場合には、その後一〇年間位検見によって収穫高が査定され、その平均収穫高に基づいて以降の免相が決められるのが普通であるが、木曽の場合は村高がないから反当年貢高である。享保検地後三年間検見による山口村の反当年貢高は次のとおりである。
(表)山口村[自享保九年 至同十一年]年貢三か年概反取米高(山口村楯庄屋萬留帳より作成)
 馬籠村の検地後の反当年貢高は、庄屋文書が見当らないので、大黒屋大脇兵右衛門信親の萬留帳によって掲げると次のとおりである。三ヵ年の平均反当年貢高は、県史史料編木曽所収の年貢高と一致している。
(表)
 享保九年検地終了後木曽村々の検見が行われ、前表にみるように反当年貢高が決められた。これに基づいて検地後初の村々の年貢上納高が決まった。このことについて同年九月一二日付尾張藩御国御用人連署で次の通達(山村家享保九年留帳より)があり、その前書に次のように述べている。
 一筆令啓達候、当辰年木曽谷中御年貢之儀就被仰出候別紙書付弍通並唯今迄無年貢地之所々、向後御年貢就被仰付候、是又別紙壱通御自分え指遣候様こと年寄り衆被申聞候ニ付、右別紙参通指越之候間夫々御申渡可有之候、
    九月十二日                          遠山彦左衛門
                                   中西甚五兵衛
      山村甚兵衛様                       成瀬織部
 右によると当享保九年検地後の木曽の村々の年貢は別紙のように決まった。これまで年貢免除の土地も以後は年貢を上納するように仰せ付けられたとして、村々の決定年貢書上表とこれまでの無年貢地一覧表を添えている。そして本文は次のように述べている。
 
 木曽谷中検地被仰付田畑御吟味有之付、尾州・濃州御領分御年貢之通りに積立候へば、大分相増事に候へば今年之義ハ検地改候初年之儀に付、段々御用捨之上軽相積、別紙之通当辰年御年貢被仰付事に候、尤村々検地状之義は追付其表え可指越候へ共、百姓共覚悟之為先々右別紙指越之候、且又唯今迄無年貢地にて被指置候所々、尤由緒之品も申立相見候へ共、当時難取用儀候故、向後右無年貢地にて被指置候所々、尤由緒之品も申立相見候へ共当時難取用儀候故、向後右無年貢地之分御年貢就被仰付候、是又別紙之通ニ候間大村源兵衛へも被申談、夫々ニ被申渡候、右之外寺社除地之義は延宝年中寺社奉行役所え書し分は向後禰御除被下筈ニ候、尤検地之節打出候分は御年貢被召上筈ニ候、其内御嶽神領、須原定勝寺、宮越徳音寺控之田畑ニは打出も有之候へ共、御嶽之儀は格別之神社、定勝寺之儀ハ木曽家廟所等も有之、徳音寺之儀ハ義仲菩提所之由ニ付此所は打出之分共ニ御除被下筈相極候、委細は追而指遣候検地帳ニ相見候間兼而其心得可有之候
 右本文の冒頭に木曽の検地が仰せ付けられ田畑の等級・収穫高等種々調査された結果、尾州・濃州領の年貢と同じように積算されたから大分増額となるが、今年は検地後初めての年貢であるからいろいろと手加減して軽く見積り当年の年貢高が決定されたとし、年貢が増額になった理由を述べている。そしてまたこれまでの無年貢地に年貢が課されることになった。これについて村々からいろいろと申し立てがあるが、寺社地については延宝年中寺社奉行所へ申告した分については追って除地の検討がされる筈であると述べている。そして年貢高増額になったことについてこれからさき百姓の心積りのために当年の年貢高の内意を知らせるとして、村々の年貢高書上表を付している。
 この「木曽谷中当辰年(享保九年)御年貢米覚」を見易いように算用数字で一覧表にすると次頁の表のとおりである。木曽全体の年貢上納高は、二四八三石一斗九升一合となり、慶長一八年の郷帳に比べると一・四七倍の増加である。山口村の場合は、郷帳の九一石七斗二升八合が一八五石四斗九合となり約二倍余の増加となっている。馬籠村ではこれまでの四〇石が五二石九斗六升五合となり、約一・三余倍の増加である。
(表)表8表 木曾の村々年貢納高
註 *は享保検地の際に独立した村
   ①2石熊皮2枚分 ②山手10石 ③黄金3枚代
 そして翌同一〇年の検見では、田方全部の年貢高が大幅に増額となった。山口村の年貢上納高は、九年が一八五石四斗九合、一〇年が一九四石四斗八升四合と増額になっている。一一年には上田・上畑・中畑の反当年貢高が更に増加になった。このように検見の度ごとに増額になることに、村々では危惧(きぐ)を抱いた様子がみえる。山口村楯庄屋萬留帳に、検地後の反当年貢高が列記されているが、一一年の書上げの末尾にこのことが知れる記事がある。
「右之通御公儀より免上被仰出候処、内証にて百姓相談之上ニて、右三ヶ年之御免定相定申候」
これによると、九・一〇年検見による年貢高をもって上納したが、一一年も検見により右のとおり年貢高が出され増額になったので、百姓の方で相談して三ヵ年の年貢高の平均を出し、この年貢高で一一年の上納をいたしたいと願い出たというのである。このように検地後三年目に百姓の方から検見を打切り、三ヵ年の平均年貢高をもって当年の年貢を上納したいと願い出たのは異例なことと思えるが、これは前述したように検見ごとに増額になっていくことに、さきゆきの危惧を感じての願い出であった。
 山口村三ヵ年の年貢上納高を一覧にすると上の表のようになり、一〇・一一年には検見による引地があるから、その分の年貢高が少なくなっているにも関わらず上納年貢高は増額になっている。これは反当年貢高が増加しているからである。
(表)第9表 山口村享保9年検地後の年貢上納高
(楯庄屋・萬留帳により作成)
 馬籠村の検地後享保九年の年貢高は、次頁の第11表にみるとおり五二石九斗六升二合であったが、同一一年の三か年の平均高で計算してみると、次頁の10表のとおり六一石五斗三升六合余になる。上納高はこれに口米石当り三升ずつで、一石八斗四升六合が加算されるから、六三石三斗八升二合となる。これは検地前の四〇石に対して一・五三倍である。山口村・馬籠村の検地前の年貢高と検地後の上納高を一覧表にすると11表のとおりである。
(表)第10表 馬籠村検地後3か年概高による年貢高(享保11年)
註 馬籠村検地総反別 38町4畝25歩  外に口米1石846
       内藪  1反4畝5歩
       藪を差引いた面頻 37町9反23歩
(表)第11表 山口村 馬籠村検地前と検地後の年貢米の比較
註 口米は検地前本途年貢米1石に付1斗4升
     検地後    〃   〃 3升