検地後の年貢高増加について考察

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木曽の年貢高は、慶長一八年の郷帳に一六八二石五斗五合と決められた。おおかたの村は米に代わる木年貢を上納し、木年貢を納めない村は、湯舟沢・馬籠・山口・三留野・須原・福島・奈良井・贄川の八ヵ村であった。享保九年木年貢が廃止され、検地が行われて、木曽の年貢高は二四八三石一斗九升一合と打ち出された。翌一〇年の検見では二五〇〇余石、一一年には二七〇〇余石と大幅に増加した。享保九年検地の年貢高二四八三石一斗九升一合を郷帳の年貢高一六八二石五斗五升と比べると、木曽全体では一・四七倍の増加になる。山口村についてみると、郷帳の年貢高九一石七斗二升八合であったのが、検地では一八五石四斗九合となり約二・〇二倍の増額となった。馬籠村の場合は、郷帳の四〇石が検地では五三石九斗五升八合となり一・三四倍、三ヵ年の平均年貢高では五四石七斗二升三合となって、一・三六倍の増加となる。検地後一気にこのように増加したのは、いかなる理由によるものであろうか。それは、前述した享保九年の山村家留帳の尾張藩御国御用人の通達にみる「木曽谷中検地仰せ付けられ、田畑御吟味これあるに付、尾州・濃州御領分御年貢の通りに積立候へば大分相増事に候へば」ということに原因があると思う。よって検地前の木曽の年貢の内容について考えてみたい。
 慶長一八年の郷帳の年貢高が石高によって示されている以上、それは検地によって田畑の面積が打出され、それに基づいて村々の年貢高が定められたとみるべきである。前述した慶長七年の木曽の年貢勘定書に「寅の永流并ニ山口村・との村の永流共ニ」として、一一九石余の引地がありその年貢が減額されているから、当時の木曽の反別は明確であったことがわかる。しかし木曽には村高がなく、田畑の面積・石盛(反当収穫高)・免相(年貢率)など年貢高算出の根拠となる記録が見当らないので、年貢の内容を知ることは出来ないが、検地により一気に高率の増額を示したのは、郷帳成立当時の収穫高・年貢率の数値が尾州領・濃州領の村々に比べてかなり低かったものと思われる。また一方木曽の郷帳成立の慶長一八年から享保九年検地までの間一一一年を経過しており、この間に新田の切起もあったと思われるが、年貢高の面に現われておらず、これも増額の一因と思われる。年貢高増加の根本的要因は、収穫高と年貢率に左右されるから、木曽のうちでは最も有数な農耕地帯である山口村の年貢について増額の原因をみてみたい。
 山口村の年貢高が検地後二・一三倍に増額になったことは前述のとおりである。検地後の年貢高の増額にはいろいろの要因があったと思われるが、数字によりそれのわかる検地帳、年貢免状、名寄帳などそれを知る資料は全く見当らない。前述の尾州藩御国御用人の通達文書にある尾州・美濃領の村並に単に年貢高が倍増したとみるならば、検地後の上田の反当年貢高は四斗七升三合余であるから、検地前はその約二分の一の二斗三升五合であったとみることができる。この年貢高を当時の山村家の知行地の村々の年貢高と比較してみると、山村家の方は上田の石盛(反当収穫高)が一石四斗である。免相は村によって違いはあるが、四ツ三分から四ツ九分になっているからその最低の四ツ三分で取米を計算すると六升二合となる。これと山口村の二斗三升五合を比較すると前者の約二・六分の一となる。また木曽と同様に木年貢を上納した裏木曽三ヵ村についてみると、上田の石盛一石三斗、免相二ツで反当取米は二斗六升であった。山口村上田の石盛が三ヵ村と同じ一石三斗(これより低いとは考えられない)と仮定すると、山口村の免相は一ツ八分に当たる。これはあくまで仮定に過ぎないが、木曽村中で最も生産高の高い山口村が、他地域と比較してこのように低率であったことがわかる。
 また関が原役後家康から木曽家に知行が与えられたが、その時の石高は木曽氏の阿知戸の遺領一万石の替地として六二〇〇石(木曽考)とされている。これによると木曽の石高(収穫査定高)は六二〇〇石であったことになる。これに基づく慶長一八年の郷帳年貢高一六八二石余は免相二ツ七分となる。この免相を山村家の知行地の最低免相四ツ三分と比較すると約一・六分の一になる。検地後木曽の年貢高は、最終的に享保九・一〇・一一年の三ヵ年の平均年貢高をもって二七〇〇余石となった。これを郷帳の一六八二石余と比較すると一・六倍となる。
 検地前の木曽の年貢が他地域に比較して低額であったことは、木曽は山深く水田の少ない村が多く、焼畑に依存し雑穀を主とした土地柄であったためと考えられる。郷帳の年貢決定の際木曽氏時代からの年貢制度が踏襲され木年貢を主体とした木曽特有の年貢制度によっていた。検地後木曽旧来の年貢制度が決められ、椀飯その他山村家への納物、下代官への納物が廃止されて米納一本となり、尾張藩領の村並の年貢体制に組み入れられた。これによって山口村をはじめ、湯舟沢村・馬籠村など美濃に面した生産力の高い村の反当年貢高は一段高く格付けされた結果増額倍率も高くなったが、木曽全体としては他の地域村並の最低近くまで引上げられたということである。しかし木曽には村高がなく、村高に課せられた諸役銀(尾張藩では夫役・堤役・伝馬銀、三役銀という)は課せられていないから、実際の農民負担はなお軽かったといえる。
 江戸時代中期以降には諸藩財政の逼迫(ひっぱく)から年貢の増徴が行われた。年貢の増徴は農民にとっては死活に関わる大問題であったから江戸時代を通じて諸藩には強訴や一揆にもおよぶ争議が起こっているが、木曽では検地を境に一気に高増額になったにもかかわらず、どの村々にも異議や争議に関する一片の記録も口碑も見当らない。しかし、年貢高の増額は村民にとっては直接生活を左右する大問題であるから計り知れぬ衝撃を受けたと思えるが、平穏に治まっていたのは不思議とも思えるのでそのわけをみてみたい。
 それは、江戸時代に諸藩が藩財政の逼迫から再検地を実施したり、年貢率の改定を行い増徴を図っているが、木曽の検地はそのような年貢増徴を目的としたものではなく、山林資源の枯渇から木年貢の採取が困難となって上納に差し支えるようになり、米納に切替えるための検地であった。検地後の年貢は、尾州領・濃州領の村並に釣り合う年貢高が決められたことにより、従来の年貢高より増額になったのである。このことは前揚の御国御用人から山村家にあてた通達によってもわかる。山村家ではこの事情を村々に説諭し、村々では止む得ぬことと理解し納得したのではないかと察せられる。